everyhome
四人の運命が動き出す風が吹き始めた。
風の謡は、リリに呼ばれた。
村長のゴルバが、正式に招待状を送って来たのだ。手紙はチント宅宛に届いた。
「また来てくれって言ったのは、嘘じゃなかったね」
トリアスは嬉しそうに手紙を覗き込んだ。
“新しい”ディノピタパットが支配するようになってから、リリは少し変わったという。
重税に苦しんでいるのは何も変わっていないが、“新しい”ディノピタパットは先代よりも少し建設的な性格のようだった。
大きな「魔物の家」をひとつ増やしたのだ。
公共施設のような使われ方をする、斬新な魔物の家だった
。村人を集めて脱税がないかチェックしたり、シーラルの体制がいかに強固であるかについて講演を行ったりするためのものだった。
そして、何もイベントのない時は、村人が使用してもよいという。
「人間の生活形態や祭儀・娯楽を把握しておくと、効率の良い支配ができる」と“新しい”ディノピタパットは言うのだそうだ。
思考形態が先代よりも進化しているのは明らかだった。ダジオンエルダーが何かしらこの種のテンマに改良を施したのかもしれない。
うすら寒い気がしたが、とにかくそういうわけで、風の謡は初の魔物公認公演を行うことになった。そしてなんと三日間もの長丁場だ。
四人は知名度が高くなったことに嬉しがるよりも、後ろから刺されはしないかとヒヤヒヤした。
しかしディノピパットはなにせ“新しい”ゆえ、彼らが以前起こした事件に関して何も知らないそうで、ゴルバが四人の身の安全はとりあえず保証してくれた。
というわけで、風の謡のサーカスは、当然の如く魔物の家で行われることになった。ディノピタパットも暇があれば見に来るらしい。
「バカじゃないの?何のためにあたし達がサーカスやってると思ってんのよ」
シーナはカリカリしたが、
「向こうさんは、ほんなん知らんけん。こらえやな」
ワイルは冷めた顔で煙草の煙を吐き出した。
その魔物の家は、公民館ほどの広さがあった。演者の控室、道具置場になりそうな部屋までいくつかあつらえてある。
控室には一通りの生活道具が揃っており、宿を借りなくてもいいし、天候に演目が左右されることもない。
これが市民の血税を搾り取って魔物が作ったものだということにさえ目を瞑れば、前よりはるかに良い待遇だった。
リリに着いた四人は、公民館のような魔物の家に向かった。街中に魔物がウロウロしているのは前と変わりなかったが、殺気立った雰囲気ではなかった。
四人は目を合わせないようにして魔物の一団とすれ違った。視線を感じたが、特に何も言われなかった。
魔物の家に着いて、荷物を降ろし、準備に取り掛かっている時、
「順調ですか」
小川のせせらぎのような声がしたのでシーナが顔を上げると、
金糸の髪の、えもいわれぬ美しい女が微笑みを浮かべて立っていた。
「エルル!!」
パピが飛び出して、彼女に抱きつく。
パピを受け止めて優しく撫でながら、エルルはシーナを見ていた。
生臭い匂いすら漂ってきそうな、獣のような眼だった。
その日の風の謡の公演には、エルルが飛び入りで出演することになった。
エルルはトリアスのギターを借り、独唱のアコースティックライブを行った。
彼女の歌う歌は古いものばかりだった。まったくわからない言語のみで構成された詞もあった。
とにかく不思議な歌だったが、彼女が紡ぎだすのは聞く者を引きずり込むような強く深い声で、知らない歌なのに涙を流す観客が続出した。
その日は大盛況のうちに幕を閉じた。
エルルは、得られた報酬の分け前は一切いらないと言った。その代り話を聞けという。
その夜、四人は宿泊する予定の控室のうち一番広い部屋に集まると、エルルを囲んでテーブルについた。
エルルは鷹揚な調子で話し始めた。
「私は、あなた方に最後の導きを与えに来ました」
「はあ」
「あなた方四人は、風のラに祝福され、その力をもって戦う風のパーティです。
技巧を尽くす戦術を得意としますが、四つのパーティの中では一番人間関係の『絆』の薄い者達です。
ですから私は、あなた方にはメンバーに馴染んでいただく時間を与えました。仲良くなりましたか?」
四人は、微妙な表情で顔を見合わせた。仲良くなれたかと言われたらなったかもしれないが、無邪気にハイと返事できる年齢では誰もなかった。
気まずい雰囲気が漂う。
「…はあ。まあ…ふつうだと…思います」
仕方ないのでシーナが目を泳がせながら返事をしたが、
「それは良かったです。戦闘経験もそこそこ積んで、戦い方も分かってきたでしょう」
エルルは相手からの返答がどうだろうとまるで気にしていなかったようにさらりと流してしまい、自分の主張を淡々と語った。
「あなた方は、12人の勇者の仲間にならなければなりません。もうすぐ彼らはこのエルファリア大陸へ到達します。邂逅の時が迫っています」
シーナは思わずイラッとし、
「またその話?」
エルルはシーナの睨みも意に介さず、壁のように強固な清涼感をもって返す。
「その話をすることしか、私はあなた方に用がありません」
「あ〜、勇者ってマルキンワードなんだけどナ」
「この姉ちゃん、わかっとって地雷踏んどんよ」
ワイルとトリアスは疲れを予感しながら目配せしあった。パピはおろおろしている。
シーナはバンとテーブルを叩いた。
「だから、勇者なんて嫌いだって言ってるでしょ!?そんなの勝手にすればいいのよ」
「ではあなた方だけで、エルファリア全土の魔物と、ダジオン兄弟、人魔宰相ダルカン、皇帝シーラル、そのすべてを葬れますか?」
「…」
「できませんね。メルドの技術、これまでの戦歴、すべてにおいて彼ら12人の方が上を行くでしょう。
あなた方は頭を下げてでも、彼らの仲間になるべきです」
「別に、ボクらがなりたくなかったら、ならなくていいんじゃないの」
「いいえ…そうなります。いずれわかります」
「えらい勝手やな」
「私の勝手ではありません。これは歴史です。必然なのですから。それに、もう時間がありません。選択の余地はありません」
光り輝くほど美しい顔と美しい声でエルルは話したが、その内容はあまりにも横柄で傲慢だった。
反発を覚えずにはいられなかった。
12人の勇者は確かに実力者揃いらしい。が、今更決起してのんびりと進軍しているのは、いかにもエルファリアの現状を知らない田舎者の行動だ。
長年この制約の厳しく苦しい土地で必死に活動を続けてきた抵抗軍は、そんな呑気者達を手放しで迎えるほどお気楽ではないと、シーナは思った。
「勇者の資格があるかどうか、この目で見ないと分からないわ。その人たちを試させてもらうけど、いいでしょ」
エルルはかすかに微笑みながらうなずいた。
「そこまで用心深いのですか?まあ、お好きなようになさってください。彼らは、パインは本物ですよ…ただ、時間はあまりありませんので、手短にね」
余裕ぶったエルルの態度はますますシーナの気に障った。
「そんなに偉そうに言うなら、じゃあ、どうしてあんたは手伝わないのよ!」
「え…?」
シーナはエルルに右の人差し指を突き付け、言い放った。
「エルル。あなたはどうして通りすがっていくだけなの?次はああしろ、こうしろと言うばかりで、普段は何処で何をしているの?
知っているならなぜもっとたくさんの情報をくれないの?何が目的?世界がどうなるのか知っているんでしょ?」
エルルはその時初めて表情を変えた。まるで仮面を足下に落としてしまったクラウンのように、貼りついた笑顔を消し、無表情になった。
しばらく押し黙った後、エルルは、
「…私が、あなたがたをただ時々訪ねて、煽って、帰るだけだと言いたいのですね。私が何もしていない、それは理不尽であると」
ふっと微笑んだ。背筋の寒くなるほど悲しげな笑みだった。
「では、あなたがたにだけ、教えます。私があなたがたの仲間になれないのは、理由があります。
あなたがたになら見えるでしょう。私が何をしてきたか。さあ、見てください」
そう言うと、エルルは両の掌を外側に向け、自分の胸の前で広げてみせた。
その瞬間、シーナの視界はその白い掌でいっぱいになった。
驚く暇もなく、急に白い美しい指の掌は回転し、シーナの背中側に回って消えて行った。
見ると、シーナは白のレースのたっぷりとついた、赤い布に金の糸で美しい刺繍が施された豪奢なドレスに身を纏った淑女になっていた。
なぜかシーナはとても広い人口の池のほとりに立っていて、その中の蒼い水が渦巻くように波を作っているのを見ていた。
その時、シーナは誰かの声を背中から聞いた。ふふふ…という笑い声だった。
「エルファス城のラの泉の前に立ってください、私が導きます…と、言いなさい」
それは優しげな声色で、シーナに言う。
「何も心配いりません。あなたの大事な人は、あなたによって守られます。あなたは女神です。女神になれるのです。その命を捧げることで」
そして、背中をそっと押された。
シーナは水の中に落ちた。
シーナは水面へ向かって手を差し伸べたが、どうやっても浮かび上がることはできず、吸い込まれるように水底へと墜落して行った。
耳元でごぶごぶと水音がする。それでも、ふふふ…という笑い声だけが、みるみる遠ざかる光の彼方からいつまでも響いていた。
シーナは水を大量に飲み、苦しみでもがきながら、いつか意識を失った。
ちらりと端に見えた金色が、最後に認識できた視覚からの信号だった。
水面から飛び出し、恐怖で絶叫しながら必死に息を継いだ。
そうしたと思ったのだが、なぜかシーナは固い床に伏していた。
寒さと肺が水で満たされた恐怖でいっぱいで体はがくがくと震えているのに、服の裾さえも濡れていなかった。
自分が誰でどこにいて何をしていたのか、一瞬思い出せなかった。助けてと叫ぼうとして、息ができていることに気が付いた。
(なに、今のは?)
シーナは激しく混乱した。あれは自分ではなかったのだろうか?夢を見ていたのか?
起き上がろうとすると強い耳鳴りと眩暈を覚え、シーナは吐きそうになって目をぎゅっと瞑った。
部屋の灯りが膨らんだり縮んだり、明滅しているのがとても気持ちが悪くて見ていられない。
ものすごい音がしている。パピの泣き声だと気が付くのに、しばらくかかった。
パピも床にいた。パピは赤ん坊のようにペタリと座り込んで、火がついたようにギャンギャン泣いていた。
聞いたこともない声だ。シーナは恐怖を感じた。
その反対側では、トリアスの長い藍の髪が扇のように美しく広がっているのが見えた。
「ヴっ…ぇ、ゲホッ」
トリアスもまた床に倒れていた。苦しそうに体を丸めてえづいている。
眩暈をこらえてシーナが上半身を起こすと、奇妙な甲高い音の咳をしながらワイルが立ち上がるところだった。
双剣をずらりと抜き放ち、二枚の白刃をエルルに向けると、
「お前が、ジョゼル王を殺したんか!!」
ワイルは血を吐くような声で叫んだ。
「え…!?」
ぐるぐる揺れる視界で頭が働かず、シーナはワイルの台詞にただ呆然としていた。
エルルだけは一人、席に着いたままで動かずにいた。掌は膝の上に置かれている。
エルルはワイルを見ると、「違います」と微笑んだ。
「私はジョゼルがブラッドマーベルとの決闘で使う剣の、刃と柄の継ぎ目を壊しました。
でも直接手を下してはいません」
シーナは目の前が真っ暗になった。
「その細工は…ムーラニアのやつがやったんじゃなかったの?」
「誰かそれを見ましたか?そのように他人が思い込んだだけです」
「ッ…」
「ジョゼルが万が一にも勝つことがあってはならなかったのです。ハーブなんか、あってもなくても変わらない。
いつも同じ結果にしなくては。正しい歴史の為に」
「このッ…」
ワイルは血走った眼でエルルを睨み付け、さらに何か言おうとしたが、突然激しく咳き込み、体を折って苦しみ始めた。
エルルはそれを冷ややかに見ているだけだ。
ついに膝をガクンとついたが、それでもエルルに向かって短剣を投げつけようと右手を振り上げるワイルに、パピが後ろから飛びついた。
「やめて!!」
パピは号泣しながらわめいた。
「エルルはかわいそうなんだグリ。世界中の誰よりもかわいそうなんだグリ。嫌いにならないで。嫌いにならないで…」
誰にもその言葉の意味が分からなかった。ただ、ワイルは言葉も出なくなり、剣を取り落して、咳と喘鳴を交互に繰り返すだけになった。
エルルはそれを気の毒そうな目で一瞥すると、
「トリアスは?」
視線を移し、別の名を呼んだ。
ワイルが崩れ落ちたのと同じくらいのタイミングでトリアスは立ち上がっていた。
美しいまっすぐな藍の髪は乱れ、蒼白な彼の顔の上を朽ちかけたすだれのように醜く垂れ落ちていた。
激しく上下する肩は彼がシーナと同じ症状に苛まれていることを示していたが、トリアスは根性で立っているようだった。
表情が歪んでいるのは嫌悪と侮蔑の感情によるものだ。
「あんたとんでもない売女だね」
吐き捨てるように言ったトリアスの言葉で、シーナは自分たち四人はそれぞれに異なる幻影を見ていたのだと気が付いた。
エルルは薄笑いさえ浮かべた。
「それが見えましたか。あなたも好きなことでしょう?」
「違うッ!!」
トリアスは叩き壊さんばかりの勢いでテーブルを拳で殴りつけた。床が揺れるほどの衝撃が起こる。
「汚い…汚いな!!虫唾が走る!あんたみたいなアバズレ知らないよ!!」
フェミニストを貫いてきた彼とはとても思えない罵声を、トリアスはエルルに浴びせた。
「そこまでして連中を懐柔させたかったのか!?
あんた誰の味方なんだよ!誰と寝てるんだよ!!信じられない!ほとんど化け物じゃないか!!」
「あなた達勇者を守るためにした時もあったのですよ…
慰めも癒しも、人間は必要とします。私は求められたので、そのことを活かしました。それだけです」
トリアスは青ざめ、絶句した。
エルルを見たくもないというようにサッと背を向けると、シーナの隣の席にいたトリアスは、床に倒れているシーナの方へよろよろと移動し、
エルルから隠すように自身の背後へかばった。
そんなトリアスの行動は意に介さない様子で、エルルは机に頬杖をつき、尋ねた。
「ではシーナ。何を見ましたか」
そのころにはシーナの眩暈と耳鳴りはだいぶ回復していた。シーナはトリアスの腕をつかんで支えにし、エルルを睨み付けながら、
「あんたが…女の人を、水の中に突き落とすところよ」
言うと、エルルは初めて、驚いたようにまばたきをした。
「そう…そんなに深遠が見えましたか。さすがですね」
「あれは誰!?」
「察しはつくと思います。今はわからなくとも、いずれわかりますよ」
シーナは背中が粟立つのを感じた。
具体的にいつのことかはっきりわからないが、おそらく過去、エルルはとんでもない人物をその手で葬ったのに違いなかった。
誰からも言葉が出なくなったのを確かめると、エルルは流暢に喋り出した。
「詳しくお話しできませんが、私は自分一人では償いきれない罪をたくさん犯しました。
その一片を、あなたたちは見ましたね。見たならわかるでしょう。私の穢れた魂と肉体に、ラの祝福を受けることはもうできません。
私のラは、あなたがたの邪魔をするほど、禍々しいものです。だから、長く一緒にいることはできません」
「なんのためにこんなことすんのサ」
トリアスが恐怖に凍りついた眼で呟いた。
エルルは微笑んだ。
「歴史の為です」
「歴史?」
「そう。私も、歴史の歯車の一部に過ぎません」
エルルは涼しい顔で立ち上がった。
「私はもう、どうなってもいい。何でもします。
できるなら、私一人でやりました。あなたがたを巻き込まなくてすむ方法があるなら、そうしました。
でも、なかったんです。もう後戻りできないんです。だから、成功を祈っています。今私にできることは、祈ることだけです。
戻ってきたら、私を殺す方法を考えておいてください。戻ってきたらね」
エルルは捨て台詞のようにそれだけ言い残すと、歌いながら部屋を出て行った。
四人は部屋に取り残され、「エルフのうた」が遠ざかっていくのを、絶望的な気持ちで聞いていた。
ワイルの咳はずいぶん長い間おさまらなかった。
横になることを勧めてみたが、寝るともっとひどくなるということがわかり、結局ワイルはベッドの脚を背もたれにして床に座っていた。
華奢で背の高いワイルがその体を縦に縮めて座っていると、まるで彼自身が折り畳み式の椅子のようだった。
頭を膝の中に埋めるようにして、タオルを口元にあてて咳いている。シーナは紅茶を入れてみたが、しばらくは飲める余裕さえもなかった。
心配で、誰もその場を動けずにいた。
「どうしたんだろう…」
「エルルの見せた映像(ビジョン)が、あまりにも生々しかったせいじゃないかしら」
パピはワイルの側に居てずっとワイルを見ていたが、どうやら治癒は使えないらしく、ただ寄り添っているだけだった。
なす術のないトリアスとシーナはとりあえずテーブルについて、二人の様子を伺いながら、ぽつぽつと話し合っていた。
エルルに四人が見せられた映像はすべて真実であるらしかった。エルルが歴史の裏で暗躍してきたことを示す内容だった。
エルルは時代に関係なく同じ容姿を保っているので、時間のわかる景色が背景に現れない場合いつのことか断定できなかったものの、
おそらくすべては15年前に起こった事件から始まっていた。
理解できないことだらけだったが、エルルの纏う謎を神秘や美などと解釈していたのは間違いだったことだけは確かだった。
シーナが、水の中に落とされた時の苦しさと水の感触、耳に聴こえる音など、
まるで自分がそうされたかのようにひとつひとつ鮮明に思い出せることを語ると、
「ボクもだよ」
トリアスが呟いた。
トリアスは、エルルが様々な男と交わっているところを見ていた。
エルルは美しい裸体をさらして、妖艶に誘っている。それは変わらないが、走馬灯のように次々と男が入れ替わるのだ。
ひどく醜い男、でっぷり太った中年や、中には魔物に近いなんだかわからないようなものまで、ありとあらゆるものとありとあらゆる場所で性行為をしていた。
ところどころの場面で前後のやり取りも見え、エルルの目的が分かった。
内容は様々だったが、それはいつもエルルの主張を通すための手段らしかった。
形あるものとは限らなかったが、男の性の捌け口になることで得られる報酬を、彼女は常に受け取っていた。
「男側の視点だったら、よかったかもしれないね。でもボクは、彼女の視点だったんだよ。痛くてたまらなかった」
トリアスはエルルになって、好きでもない男をなかに受け入れていた。
彼女の中には様々な感情があふれていたが、一番強く感じたのは、恐ろしいほど激しい性交痛だった。
行為のあった次の日の朝には、どことも知れない川や湖にエルルは出かけ、禊のようなものを必ず行うのだったが、
自分の体を確かめるとひどく傷つき、汚れているのが常だった。
局部は腫れ上がり、血や膿が滴っていることもあった。性病にもかなりの頻度で罹った。
エルルには病を取り除く魔法が使えるようで、次の男と交わる場面の時にはもう治癒していたが、
発熱、全身倦怠感、食欲不振、吐気などに常に悩まされていた。
極めつけは性器周辺に激しいかゆみをともなう赤いカリフラワー状の疣贅や、ミミズ腫れのような盛り上がりができていたのを見た時で、
ぞわっと背筋が総毛立ち、
「もうやめてくれ!!」
トリアスは叫んだ。その瞬間に、椅子から転げ落ちて床に倒れ、自分に戻ったという。
「あんなもの見たらね…。しばらくなんにもしない。する気にならなくなった」
トリアスは視線を下に落として、自嘲の笑みを薄く浮かべながら言った。
シーナもこの話には心底ぞっとして、口を噤んだ。
その時、ふいにワイルがタオルを口から離し、冷めた紅茶を一口飲んだ。やっと飲み物を口にできるほどに咳と咳の間が空いてきたのだ。
シーナとトリアスは慌てて席を立ち、ワイルとパピを囲むように集まった。
「ワイル、大丈夫?」
「ああ」
ワイルは返事をしたが、声はひどくかすれていた。何か言いたいことがあるようで、喋ろうとするのだが、そのたびに咳で遮られてしまう。
「無理しないでヨ」
トリアスがワイルの背をさすりながら顔を覗き込んだが、ワイルが口元にあてているタオルに視線を移した瞬間、ぎょっとした顔をした。
「血が」
白いタオルには鮮血の飛沫と血痰がこびりついていた。
しかしワイルはいやいやをするように首を激しく振ると、乱暴にトリアスの手を払いのけながら、
「これは、ジョゼル王の血や」
と言った。
「なに?どういうこと?」
もともとダミ声なのが喉を傷めたことでさらに嗄声になっており、聞き取るのに苦労したが、ワイルの見た映像は次のようなものだった。
始めは、エルルの視点だった。
エルルは処刑場と思われる大きな建物に入って行った。
エルファリア王ジョゼルとブラッドマーベルとの決闘が行われると、壁の張り紙に書いてあった。15年前のボアの町だった。
ジョゼルの為に用意されていた剣は、もともととても粗末なものだったが、エルルは華奢な腕でハンマーを振りかぶると、その剣を何度も叩いた。
くもった刃に映った彼女は、ぞっとするほど冷静な顔をしていたという。
それから急に、ジョゼルとブラッドマーベルの決闘のシーンになった。自分がマーベルだった。
もうその時にはジョゼルの剣は折れ、足元にその破片が散っていた。
鉄箸のような腕を振り下ろすと、ジョゼルの左の首から右の脇腹へ、その先端が食い込み、突き刺して、貫いた。
壊れた水道管のように、頸動脈からジョゼルの真っ赤な血が噴き出てきた。
マーベルになったワイルはその血をまともに顔面にかぶり、大量に飲み込んだ。
気が付くとこの部屋に戻っていて、自分の体はマーベルではなくなっていた。
喉がひどく粘ついた。鼻に突き抜けるような血の匂いがかおり、思わずむせた次の瞬間から咳が止まらなくなったのだという。
これはすべて幻影で、血痰もジョゼルの血などではなく間違いなくワイルの傷めた気管支からの出血であったのだが、
ワイルにはもう、自分がジョゼルを殺したとしか思えなくなっていたのだろう。
「もう嫌や」
咳の合間に途切れ途切れにそう訴えながら、ワイルは咽び泣いていた。
今までにワイルが泣くところを見たことがなかったのでひどく驚いたが、気が付くとシーナの頬にも涙が伝っていた。
血まみれの歴史と運命をただ受け止めろと強いられることが、こんなにも心をずたずたにされるものだと、この時四人は初めて知った。
誰も何も言わず、誰の顔も見ずに、四人はしばらくただただ涙を流した。
「どうしてこんなことに…」
沈黙を破るのはいつもトリアスだった。
「どうやったら、こんな思いせずに済んだの?」
ワイルがケンケンと咳をしながら首を振る。
パピが、そんなことは考えても仕方がない。これは避けては通れないことなのだ、とたどたどしく言った。
「グリには、やるべきことがある。それが運命だって、エルルいつも言ってたグリ。
なにをやるのって聞いても、いずれわかるって、答えてくれなかったけど…グリ」
シーナはパピの涙を拭いてやりながら、
「あたし達は、選ばれた。これだけは、あたし達が拒めないことなんだって、分からせるために…あの女は来たのよ。
どんなことをしても、脅しかけてでも、覚悟させようとして、来た。
他の12人の勇者よりも、ある意味あたし達が一番能天気だって、言いたかったのかもね」
考え考え言葉を紡いだ。
トリアスがはぁ、と大きなため息をつくと、抱えた膝に顎を乗せて、
「これからどうする?フォレスチナから来るアルディスたちの仲間になるの?」
聞かれてもシーナは答えられなかった。
「まだ…決められない」
「エルルのやったこと…ボクらしか、知らないんだよね」
「12人の勇者は、ほとんど何も知らないと思う。『あなたがたにだけ見せる』とエルルは言ったから」
「彼らは、エルルのことどう思ってるかな。少なくともボクらより、彼女のこと信頼してるでしょ。なんか…うまくやってける自信ないな」
「そうね…」
「話さないよね?」
「あたし達の方が悪者になって終わるだけだと思うから」
「やっぱりそうかな」
そんな会話をしているトリアスとシーナを、パピが恨めしそうに見ていた。エルルを非難していることを咎める目をしている。
シーナもトリアスも、パピがエルルを庇う理由がいまひとつ理解できないでいた。
パピは、自分が見た映像について一切語ろうとしなかった。尋ねても首を振って拒絶するのだ。
どう考えても痛みや悲しみを伴う内容であることは間違いなかったし、幼くても頑固なパピに、それ以上話せと強いることは誰もできなかった。
「パピ。パピは、エルルが好きなの?」
「好き」
「どうして」
「エルルは世界一かわいそうだから」
「世界一かわいそう?」
「そりゃあ、世界中の人から、エルルは嫌われるかもしれないことをしたグリ。死んでも、ラに還れないかもしれないグリ。
エルルはそれをわかってるんだグリ。エルルは、いつもどんな気持ちだと思う?
そんな人を、グリは、嫌いになれない…わかってあげたいと思うグリ」
どうやらパピはシーナ達よりも多くのことを理解しているらしかったが、子供なのでうまく自分と他人の違いを認識できず、肝心なところを説明できないでいた。
それでも一生懸命話すパピを見ていると、シーナもトリアスも微笑ましくなり、刺々しい気持ちが薄らいだ。
「…優しいのね、パピは」
「パピがエルル派じゃあ、ボクら、あの子の悪口言えないネ」
小さな笑いも出始めると、
「そろそろだグリ」
パピは立ち上がった。
「そろそろって」
パピはよちよちとワイルの側へ歩いていった。
その時にはワイルの咳もだいぶ間欠的になっていたが、まだ喋れないワイルは疲れ切った顔でパピをどんよりと見降ろした。
「ワイル、もう大丈夫グリ」
パピがワイルの胸にやわらかな掌を当てると、そこから蛍のようにほのかな光が散った。
その光が消えると同時に、ワイルは気絶するようにカクンと眠ってしまった。
「あうっ」
意識を失ったワイルがいきなりパピの方へ倒れて来たので、パピはワイルの体に押し潰されてしまった。
「あらら」
慌ててトリアスが助けに向かう。
ワイルの下から這い出して来たパピは、
「ワイルの血の中でラがひどく乱れていたから、それが静まるまではグリの魔法でもどうしようもなかったのグリ。
外から出来た傷なら、からだのなかのラは綺麗だから、すぐ治るグリ。でも、からだのなかのラが乱れると、治らないのグリ」
と説明した。
「そうなの」
トリアスはワイルを抱え起こして、ベッドの上に寝かせた。
ワイルはトリアスよりも背が10センチ高いが、体重は10キロ少ない。
トリアスもわりと華奢で、体格に恵まれているわけではないが、ワイルは本当に病的なほど細身だった。
いつも先陣切って戦ってくれるワイルだが、実は戦闘に向いている体ではないのかもしれない。シーナはふと、気の毒になった。
そのまましばらくワイルの顔を見ていたトリアスだったが、
「ボクらも、もう寝よっか」
振り向いて、そう呟いた。
シーナは寝る時は別の部屋へ移動することになっていたが、なんだかその場を離れる気になれず、
マットと掛布団をわざわざ持ってきて、この部屋で四人で眠ることにした。
ワイルとパピがひとつのベッドをシェアし、その下の床にマットを敷いてトリアスとシーナが横になる。
ワイルはあれ以降目を覚まさなかった。喘鳴も咳くこともなく、静かに深い呼吸をしているだけだった。
死んだように眠るワイルの隣に猫のようにもぐりこんだパピは、そのうちすやすやと寝息をたてはじめた。
明かりを一番小さくして、暫くしてもシーナは寝つけなかった。
疲れ切った頭では特に何を考える気も起きず、ただ黙って暗闇の中で目を開けたり閉じたりしていると、
「ボクら、どうなるの…?」
トリアスが天井を見つめながら独り言を言っているのだった。彼の見開いた瞳が小さな明かりを映し、星のようにゆらめいて光っている。
シーナが黙ってトリアスの方を見ていると、彼もシーナが起きていることに気が付き、ふっと微笑んだ。
そしてトリアスは、パピが聞いていないか確かめるためだろう、ベッドの上をちらりと伺うと、シーナにしか聞こえないように声を潜めて囁いてきた。
「男のくせに情けないって思うだろうけどさ…、ボクはさ…、怖いよ。怖くてたまらなかったよ。
シーナ、知ってるだろ、ボクがどんなに意気地がない男かってさ。また、逃げ出せないかなって思ってるよ、ボクは」
シーナは黙って聞いていた。
「でも、ボクだけが逃げ出してどうなる…。シーナも、ワイルもパピも、一緒なのにさ…、
またみんな裏切ってさ、ボクだけ逃げ出しても、どうなる。どうもならないよ。もうどこへも逃げられない」
「…」
「でも、あんな恐ろしい女の、言いなりになるしかないの?ボクら、死ぬのかな?」
「死ぬかもしれないね」
シーナの答えに、トリアスは恐怖に瞳を揺らした。
「でも、あたしたちが生きていることには意味がある。死ぬことにも、意味がある」
シーナは、床をゆっくりと指先でなぞりながら、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「あの女もどうせ、どこへも逃げられないのよ。
あたし達にあてつけてきてさ。バッカみたい。怖い思いさせられて震えあがるのなんて、あの女の思うつぼじゃない。
あたし達に覚悟があるのか試したんなら、あたし達だってあの女を出し抜くくらい、やってやるわよ」
「すげえ」
しばらくあっけにとられた後、トリアスは笑い出した。
「なんか、シーナ、ホント、強くて。すごいな」
シーナも笑った。
「あんたたちと会ってから、ちょっと、変わったかな」
「綺麗になったよネ」
「バーカ」
「ふふ。…ボクも変われるかな」
「うん」
「みんなと一緒にいたら、大丈夫?」
「うん」
「じゃあ、一緒にいるよ」
「うん。一緒にいよう」
自分達は、他の子供と同じような純朴で穢れない幼少を過ごすことができなかった。
その時間を今取り戻すように、二人は幼い頃に誰ともできなかった会話をしていた。
一人では、到底受け止めきれはしなかっただろう。でもここには、苦しみも悲しみも共有できる仲間がいた。
それは美しいものとは今はとても思えなかったが、四人を取り囲む沈黙は、同じ色をしていた。
彼らは同じ場所で、眠りに就いた。
仄かな苦い香りでシーナは目が覚めた。
身を起こすと、部屋の隅、窓際にワイルが立っていて、白んできた空を見ながら煙草をくゆらしていた。
「ワイル…大丈夫?」
その声にワイルは振り返り、シーナと目が合うと、ふっと微笑んでみせ、
「いけるよ」
と言った。その声はいつもよりもかなり掠れていたが、ちゃんと聞き取れた。
「お前、なんでここで寝とん?違う部屋で寝るんやったんとちゃうん」
「…」
「寂しかったんえ」
「ち、ちが…、あ、あんたを心配して」
「ん〜…、なに〜…?みんな起きてるのォ…」
話し声で覚醒したのか、もそもそとトリアスが身じろぎし、藍色の長髪をぐしゃぐしゃかき回しながら首だけ起こしてきた。
「ワイルぅ…、だいじょおぶぅ?」
寝ぼけ眼で、えらく間延びした声で尋ねるトリアスに、
「ああ、いけるで」
ワイルが答えると、トリアスは、ぱすぱすっとまばたきをしながらワイルを見て、
「あ〜〜ッ、…そ!!」
ものすごく雑に返答し、またバタンとマットの上に倒れこんだ。
「ワイルぅ〜、何度も言うけどさァ…、朝のトッパチから煙草吸うの、やめてくれるゥ〜…ノドがイガイガするからぁ〜。
ボクの美しい声を枯らさないでくれよォ。あと、昨日、あれだったしさァ、あれよ…とにかくぅ、やめといたほうがぁ、いいよォ…」
半分寝た状態でこれだけしゃべくるスキルのあるトリアスにシーナはたまげたが、いつものことなのか、
「じゃかあしなあ、ほなけん窓際におるでせんか。美しい声て自分で言うなや、きしょいんじょ。お嬢になんもせえへんかったやろな!?」
「してなぁ〜い!!」
いつものようにワイルは悪態で返した。それでもさすがに思うところあったのか、煙草を消すと、ベッドの方へ戻って来た。
トリアスは濡れ衣を否定した後、また眠ろうとして、横を向いて目を閉じてしまった。
「昨日の事、覚えてる?」
シーナがおそるおそる尋ねると、
「たぶんやけど、覚えとうよ」
ワイルはばつが悪そうに笑った。
「なんや、えらい迷惑かけたみたいやけん。ごめんやで」
「ううん」
「ありがとうな。ほんまに…」
ワイルはベッドに腰掛けると、まだすやすやと眠っているパピの頬を、人差し指の先で愛おしげにくすぐった。
シーナはいつもの四人の日常が戻って来たのだと思った。それだけで、涙が出そうなほど安堵した。
「さて、ほな、はよせなな」
ワイルは明るい声を出すと、真下に寝ているトリアスの腰を上から踏んだ。
そのまま乱暴に起こそうと蹴りをいれ続けながら、ワイルはシーナに指で向こうへ行けと促す。
「わしが朝飯作んりょるけん、お嬢、着替えてき。ほんでから作戦会議するで」
「作戦会議?」
ワイルの顔には疲労が残っていたが、瞳は狼のように鋭く光っていた。
「これからどないするかよ。時間はあらへんで」
簡単なものを作らせたら、ワイルが一番上手だ。
パンケーキの上に半熟の目玉焼きとベーコンが乗る。備え付けの手狭なキッチンで四人分を作るのに、みんな出来立ての熱々だった。
昨晩の出来事にはとにかく疲労させられていたので、あたたかな朝食が空腹に染み、四人とも黙々と口に入れた。
全員が食べ終わり、シーナがコーヒーを淹れて配り終わった頃から、ようやく話し合いらしい話し合いに移る運びになった。
「エルルの話からすると、12人の勇者は今ごろギアに着いてるでしょう。
魔物もいないし、たいした情報も得られはしないから、きっと素通りする。となると、早くて二日後にはここに来ることになるわ」
「二日だったら、ギリギリ公演期間内だけど。終わっても来なかったら、待つ?」
「待つ義理なんかないわ。ここ魔物の家よ?さっさと出るわよ」
トリアスは頑ななシーナに困り顔をする。
「えぇ〜、どうせ会うんだったらさっさと顔合わせしといた方がよくない?じゃァ、公演までには間に合ってくれるのを願うしかないね」
「えっ、わしらの下手くそなチンドン屋見られるん?アホと思われるんちゃうん」
「やだー」
眉をしかめるワイルとパピに、トリアスはニヤリとして、
「絶対大丈夫」
フォレスチナとカナーナは、第一次産業が最も盛んな国だ。森や田畑が国の面積のほとんどを閉め、人口密度もエルファリアとは桁違いに低い。
大規模な施設などはほとんどないし、大道芸人やサーカスなど、都会的なセンスの娯楽が存在しないのだ。
「あいつら田舎者だからね。ボクらのサーカスとかのレベルでも、マジすごすぎ!ってなるよ」
「グリの輪くぐりも、マジすごすぎグリ?」
「そう」
「お前なあ、自分の住んどったとこやん。お前やってちょい前まで田舎者やったんぞ。威張んなや」
「いいじゃん、ボクがこの情報持ってて助かったでしょォ?」
「ほうやけどー」
「話が逸れる!」
議題を戻し、話し合いは振り出しに返る。
シーナ達四人が風のラを司るパーティであり、自分達の仲間になるべき存在で、エルファリアにいる。
この三点だけは、12人の勇者も知っている。エルルからそう聞かされているからだ。
ただ、エルルのことだ、それ以上詳しい情報は何も与えていないに違いない。すべてタイミングはシーナ達側から測れるようになっていた。
それはシーナ達にとって有利な条件であったが、問題はこちらの心構えだった。
「シーナ、あいつらの仲間になる気あるん。ないん。はっきりせえよ」
「…なりたくない」
「なっといた方がええと思うよわしは。後に伸ばすほどめんどうなるで」
「でもなりたくない」
「わしらの方があいつらより弱いんやで。なめられるばっかやないか」
「でもなりたくない」
「エルルにあんな目に遭わされてまで、仲間になれ言われたのにか」
「でもやっぱりなりたくないの!」
「お嬢〜、頼むで」
ワイルはガッタンと背もたれに体を預け、天を仰ぐしぐさをする。
「お前ががいなんは知っとるわ。ほなけどここはこらえるとこやで。お前がうん言わな、わしらもどないしょうもないんや。堪忍してつか」
「ボクもワイルと同意見だよ。ワイルの言ってること、全部正しいじゃないの。
別に悪いやつじゃないよ?アルディス達は。ちゃんと仲間に入れてもらえるってば」
トリアスがワイルをフォローするが、シーナはそれがますますカンに触ってしまう。
「なんであんたまで勇者になりたがるのよ」
「勇者になりたいんじゃないってば」
「ほうよ。どう見てもほんな顔でないやろ、わし」
「そうだね〜」
「お前に言うてないんじゃわ」
「ボクは勇者の顔でしょ?」
「はいはい、歩く顔面偏差値」
「グリは?」
「あー、パピはねぇ、どっちかって言うとぉ」
「話が逸れる二回目!!」
あれよあれよという間にもうテイク3である。ポットに並々と淹れてあったはずのコーヒーはもう空になってしまった。
疲れを感じながら、前にリリに来た時はこんな状態ではなかったなとシーナはぼんやり考えた。
心細く焚火の炎を見つめていたのを記憶している。
ワイルは無口で、パピは人見知り、トリアスは上っ面を撫でるようなことばかり喋っていた。シーナの心も固く閉じきっていたと思う。
「仲良くなりましたか?」
エルルの笑顔が脳裏をかすめる。
四人でいると話が盛り上がるようになったのはいいが、口々に囀る鳥の群れのような状態で、すぐに本題でない方向へ曲がってしまう。まとまる力がないのだ。
「一番人間関係の『絆』の薄い者達です」
またエルルの笑顔が思い浮かんだ。シーナはいい加減むかついた。なんでもあの女の言うとおりになってたまるものかという、妙な意地が湧き上がってくる。
「勇者になりたいとは誰も言ってない」
話し合いはリセットしているつもりなのにシーナが一人どんどんヒートアップしていくので、トリアスが恐る恐る言葉を選びながら言い直す。
「12人のやつらも、たぶん、誰も言ってない。エルルが勇者勇者言うから、そうなっちゃっただけだよ。志のある者ってだけさ。
ボクらも志はあるじゃン。別に勇者じゃなくてさ。それじゃだめ?」
「でも、勇者って呼ばれてるのは事実なのよ。勇者はあたしの両親を殺したのに!」
「その人達と同じなわけないじゃない。15年経ってンだよ」
「分かってるけど、でも、勇者ってだけで生理的に無理なの」
「出た、『生理的に無理』」
トリアスは戦慄した顔で突然そう言ってなぜか勝手に会話を切ってしまった。
女にこのワードを言われると取りつく島がないことをパブロフの犬のごとく反射的に理解してしまうらしい。
ワイルがそれをしらけて見ていたが、ぼそりと呟く。
「ほれ、気になるんよな」
「なんのこと?」
「エルルは、まるで15年前の勇者とわしらを同一視したようなことを言よる。
わしらがそいつらと同じなわけはない。あほでも分かる。なのになんで、ほんなこと言うんかいな」
「エルルのことなんか知らないよ。彼女についてボクらが分かるのは、A級戦犯で、不思議ちゃんで、ヤリマンだってことだけだ。あー、思い出したくない」
トリアスでさえエルルにはいらいらしているのだった。だが、どんなにエルルに私怨を募らせたところで問題の根本的解決はできなかった。
「パピ、エルルからなんか聞いてないの」
「聞いてたらしゃべってるグリ」
今更のシーナの質問に、パピはむすっとして言った。
「じゃあ、パピ的にはどうなの。エルルの言う通りにすればいいと思う?」
「うーん…」
パピが何か画期的なことを言うかとみんな期待したが、
「グリは、エルルにシーナと一緒にいろと言われたのグリ。だから、何をどうするにしてもみんなと一緒にいるグリ」
ここにきてパピはなんとも中庸な回答をするのだった。
拍子抜けすると同時に、妙に感心してしまった。
パピはとても空気の流れを読むのがうまいのだ。誰の擁護もしないことで、誰の味方でもあることをこんなにも簡潔に示してみせた。
パピも短い間に大きく成長したのだな、とシーナは感慨深く思った。
それはともかく、話は結局まったく収束していかなかった。
それからも時間があるたびに話し合いはしたものの、
理路整然と説得しただけではシーナの頑なな勇者嫌いを直すことはできないということをワイルとトリアスは思い知り、
シーナに全権を任せている状態では何も動けないという結論に達した。かと言って、誰もシーナから離れようという気はなかった。
それだけは揺るがなかった。
いつのまにか、公演は最終日を迎えた。
そしてここに、緋色の客がやってくる。
シーナ達に会いに来たのは、火のパーティだった。
いかにも勇者一行といった風体の四人だった。
パーティリーダーは真紅の鎧に身を包み、巨大な騎兵槍を担いだ騎士だった。
いかにも豪傑な外見とは裏腹に、なにか自信なげに濃い眉をヘの字に曲げていて、
上背を丸めて仲間の言うことを神妙な顔で聞いては頷いている、神経質そうな若者だった。
この青年はアルディスという名で、トリアスの知人だった。ラダでも接触した経緯があったし、向こうもトリアスを頼ってきた節があった。
交渉するには申し分ないほどよい相手であった、ところがそれにもかかわらず、シーナはろくに会話もせず彼らを追い返してしまった。
なんとなく、青年の腰の低い姿勢が気に入らなかったのだ。
もっとも、もし向こうが上から目線で接してきたら、もっと腹が立ったに違いなかったから、結局はシーナのワガママにすぎなかった。
仕方がないので、シーナが公演開始の挨拶をかねた前説を村長のゴルバとしている隙に、ワイルとトリアスは彼らをこっそり舞台袖に呼んで謝った。
可哀想に、アルディスはよほどショックだったのか、今にも倒れそうに槍に掴まってやっと立っていた。
「やっぱり、俺なんかじゃ交渉役は無理だったんだよな…いつもこうなんだ。何もうまくいかない」
絶望に満ちた表情でそう言うので、ワイルは慌てて「えろうすんまへん」ととりなしたが、
「いや、本当に気にしないでくれ。こいつは図体がでかいわりに小心でね。情けない限りだ」
壮年の魔法使いが、よく通るバリトンで言った。立派な髭をたくわえた、鷲鼻の男だ。彫りの深い顔立ちはいかにもフォレスチナ人らしい。
彼はアルディスの背中をバンと気合を入れるように叩くと、
「謝らなければならないのはこちらだ。実はこっちも、得ている情報が少なくてね。
とにかく風のパーティがエルファリアにいるから会えと言われていただけで、君たちにどこで会えるかも分からなかったし、
そもそも我々には全く土地勘がないのだ。魔物の分布具合も知らないし、どのように進んでいけば効率がよいのかもまったく手探りの状態でね。
それを、何もかもとんとん拍子に進むと思い込んでいた我々が呑気すぎたというものだ。
いきなり押しかけてきて自分たちの傘下に入れとは、君たちにしてみれば非常に不躾な話であったろう。非礼を詫びる」
雄弁に語った。アルディスが機能しない時は彼がこのパーティをまとめているのだろう。
やはり、とワイルとトリアスは顔を見合わせる。
エルルが12人の勇者に与えた情報は本当に少なかったのだ。しかもこの四人を見るに、勇者は英雄気取りの天狗などではない。
こちら側はほぼ把握していたのにも関わらず、自分達から接触にも行かなかったどころか、
シーナがつむじを曲げたという子供じみた理由で仲間になるのを拒否しているなどとは、非常に言い出しづらかった。
「…ほんでも、今仲間になられへんのは、こっちの都合なわけですから。ほんま申し訳ないです」
「ほんとにゴメンね」
やや濁しで二人が謝罪を口にすると、
「いいのいいの!!私達、すっごくドジなんだから。いつもチマに負けて再占領されちゃうのよ。そのたびにみんなから怒られてきたんだもん。
今更もう一つや二つ怒られたからって、へっちゃらよ」
燃えるような赤い髪をした女騎士は、ここが舞台袖だということをまるで理解しておらず、笑いながら大声で言ってのけた。
彼女の横にいる白衣を着た小柄な癒し手の少女が、気遣わしげに舞台上のシーナをちらりと見る。幸いシーナは気付いていないようだ。
「でも私達、往生際だけは悪いのよね!だからまた誘うわ!だって、いつかは仲間になってくれるんでしょ?信じてる!」
彼女の明るさは底抜けだった。アルディスと足して二で割るとちょうどよいようだ。
「お前たちの…信頼を得るには…俺たちの実力と、誠意を…、その眼で見てもらわないといけないようだ」
どこの幽霊が喋っているのかと思ったら、アルディスだった。
「頑張るから…いつか、認めて欲しい。あの女性に、そう言っておいてくれ」
「うん。できるだけ説得する」
トリアスが苦笑いしながら答えると、アルディスは突然、トリアスを覗き込むようなしぐさをして、
「トリアス。この人たちと一緒に眠ってるのか?」
奇妙なことを尋ねた。
「うん」
「毎晩?」
「うん」
「ほんとうか。よかったな」
トリアスの返答を聞くと、アルディスはそこで初めて笑顔を見せた。
すると、旭日が昇るのを見るように眩しいのだった。別人のように見えた。
それを見ると、ワイルにもアルディスが火のパーティのリーダーである理由が理解できた。
彼が秘める火のラの輝きは、炎よりも熱く太陽よりも綺羅やかなのに違いなかった。
「俺達は…、ただ、エルファリアが好きなんだ。この島を、美しい国に戻したい。その為なら、
…そうだな、命を懸けてもいい。そう思って戦って来た。皆そうだ。
…じゃあ、また」
火のパーティの四人はサーカスを観覧していった。案の定、初めて見る都会的な出し物に、四人とも大袈裟に驚いては喜んでいた。
公演が終わった後、シーナ達はアルディス達と再び顔を合わせることなくリリを発った。
後になってワイルは、
「あの兄ちゃんの言よった、一緒に寝よるんがどうのこうのってなんやったん」
とトリアスに尋ねたが、
「さあ。なんでしょね」
トリアスはそっけなくごまかしたきりだった。
お世辞にも強そうには見えなかった火のパーティであったが、
その後四人だけでディノピタパットを簡単に蹴散らし、あっというまにリリを解放していた。実力は確かだった。
シーナ達は、街道ではない裏道を通ってギアに戻ることにした。近道だったし、勇者一行と街道で鉢合わせするかもしれなかったからだ。
道すがら、ワイルとトリアスは、シーナの反発心を呼び起こさずに勇者の仲間に入るよう説得することに限りなく心を砕いた。
シーナは決して頷きはしなかったものの、これからの身の振り方を真剣に考え始めたようだった。パピはその類の話には参加せず、無言を貫いた。
そしてシーナは、ついに、「レジスタンスを離脱することを考えている」と、ギアに着く直前に三人に告げた。
これからフェルに、その話をする。アジトに着いたら荷物をまとめて、私物は捨てるなりあげるなりして片付けるようにと。
三人はもちろん異論はなかった。
彼らは旅人だった。
風が吹き始めた。
でも帰るためではない。どこかへ行くためでもない。
四人にとっては、自分たちのいるところが、自分たちの帰る場所だったからだ。
さっき逃した、まだ今は来ない次の列車を待つ。
back