秘密
四人はこの日、マカル町へ興業に出かけていた。
当然ギアの村よりは人口が多いが、人々は農業を中心に生計を立てており、町並みはきわめて質素だ。リリのようなちゃんとした見世物小屋もない。
サーカスはラの泉を祀る神殿前の広場で行われた。
その日は曇天で、じめじめと蒸し暑かった。
今にも雨が降り出しそうな重い雲が立ち込め、火の輪くぐりや燃えるナイフ投げのコーナーのために用意したトーチが
しけって役に立たなくなるほど湿度が高かった。そのため、その日は急遽ジャグリングや歌、パペットダンスなど地味な演目を中心に切り替えた。
それでもトリアスのギターが一曲ごとにチューニングをしなおさなければならないほどの有様だった。
建物の中で行えばまだましかもしれなかったが、屋外で行う方が見てもらえる人数が増えるので、
稼げる路銀は少し多くなる。それに、元来彼らの目的は金儲けではない。
この町にはボアの悪魔の門を支配する番人兄弟のひとり、ダジオンヤンガーが駐屯している。
別名悪魔騎士ともいわれるこの男の支配状況を見ておくのが目的だ。
ダジオンヤンガーは人魔宰相ダルカン直属の部下で、兄のエルダーと共にダルカンの補佐の仕事を行っている。
たびたびボアやエルファスに遠征に向かうということで、不在が多いらしい。その間は配下の中級チマとテンマに留守を任せている。
結局この日もヤンガーは町を空けているようだった。
魔物が我が物顔に跋扈し、人々が地に身をすりつけるようにして暮らしているリリよりも、マカルはずいぶん開放的だった。
町にしっかりとした産業があるので、住民の経済状況がそれほどまで逼迫していないためかもしれない。
人々も四人の芸を喜んで見物し、リラックスしているように見えた。チップもずいぶんとはずんでくれ、稀にみる大黒字になった。
出し物がすべて終了し、後片付けや荷物をまとめる頃になっても、なお何人かは名残惜しそうに広場に残っていた。
「今夜はここに泊まられるのですか?」
三十代半ばの女性がトリアスのもとへ寄ってきて、こっそりと尋ねてきた。
「ええ、たぶん」
蒸し暑い中風もない屋外。
装飾の重い衣装を翻してたった四人で忙しく動き回っていたので、サーカスが幕を下ろす頃には全員疲れ切り、また汗だくになっていた。
ここから日帰りでギアに帰ったりはとてもできなかったし、町の一角には簡素だがきちんとした旅人用の宿が存在しているのを見ていたので、
四人とも話し合いもなしにほぼ一泊しようと思っていたのだ。それにもしかするとこの熱狂ぶりなら、
もう一日興業を行ってもまた一儲けできるかもしれなかった。
トリアスの返事を聞くと女は表情を曇らせ、さらに耳元に唇を寄せて囁いた。
「窓を開けたまま寝てはいけませんよ」
「なぜですか?」
「そうした方がいいのです」
それだけ言うと、女は逃げるように広場から出て行った。
「……?」
それを見送ったトリアスはしばらくぽかんとしていたが、やがてピンときたという顔でキザな笑みを浮かべた。
「なァるほど」
宿屋はごく普通の規模で、古くも新しくもない。ただ、泊り客は四人のほかに誰もいなかった。
納屋に大きな荷物を預け、部屋に案内されている途中で、トリアスが窓に手をついて外を覗き込みながら言った。
「蒸し暑いですねぇ。なんか雨、降りそうでふらないし」
すると先頭に立って歩いていた宿の主人が答えた。
「こういう時は、夜に雨が来ます。この町は常にそういう気候でね。部屋を換気していただいた方がよいかもしれません。
ただ、あまり大きく開け放さないでください。雨が降り込みますから」
宿の主人は慇懃に頭を下げた。
廊下の突き当たりの部屋に辿り着くと、ランタンを壁につるした。
「奥が殿方のお部屋、向かって右がご婦人のお部屋になります。風呂を沸かしております。
そのあとにお食事をご準備いたしますので、おくつろぎくださいませ」
深々と辞儀をして、主人は来た道を戻って行った。
「じゃあ、またあとで」
軽く挨拶をすると四人は部屋に入った。
男性陣に与えられた部屋の方がかなり広かったので、パピをそちらに引き取ることになり、今日はシーナひとりが女部屋である。
部屋に入ったトリアスは一番に窓を開けに行った。
「うぇー、あっついなぁ。開けても暑いね」
「ほんまやな」
「雨降ってるグリ」
パピが鼻をクンクンさせながら言った。
「え、もう?」
それを聞いてトリアスは、窓から手を差し出す。針のような細い水滴が指先に触れた。
「真夜中には雷雨になるグリ」
「ホント?今は霧雨だよ。これから激しくなるの?」
「うんグリ」
パピは勘がよく、天候の予知や失せ物を探し当てる能力があった。空気中のラの流れを敏感に読み取れるのだ。
「フーン」
なら、寝る時にはほとんど締め切っていないといけない。今のうちにと、トリアスはカーテンを取り払い、大きく窓を開け放した。すると、
「…真っ暗だな」
宿屋の周辺にも民家はそれなりの数、見える位置にあった。なのに、どこからも明かりが漏れていない。
空き家ではない、ただ窓を開けていないだけだ。それどころか雨戸まできっちりと閉ざしている。
「こんな暑いのに?無理やろ、ほなここの人らいつもどないして寝よんえ」
「虫が入るからじゃないのかなあ」
窓には雨戸はあるが網戸はない。
雨戸の存在は、この地方が激しい風雨に曝されることを示している。
そういえば町の真ん中に大きな川が流れていた。風のラの影響が強く、常に乾燥しているエルファリアの中では珍しく雨量が多い土地なのである。
だからこそこの地で農業が盛んであるのだろうが、当然、雨量が多ければ虫もわく。
「それなのにどうして、網戸はないの?」
「……」
答えに困ったワイルは、タバコを消すと備え付けの寝衣を手に取った。
「寝れたらどうでもええやん。タヌキ、風呂行こ」
「グリグリ」
「…それもそうか」
トリアスも深く考えなかった。
パピの言った通り、夜が更けるにつれ、次第に雨足は強まってきた。
雨でも気温はあまり下がらず、寧ろ湿度のせいで部屋はとても蒸し暑かった。
何も言わずに窓際のシングルベッドを取ったトリアスに、ワイルが不思議そうな顔をする。
「ええのん?雨、降り込むかもしれへんで」
「いいよ♪」
「きしょこわるいな」
いつもなら宿に関して、清潔感がどうだ通気がどうだとトリアスはとにかくうるさいし、ベッドの位置でもよく揉めるので、ワイルは不気味がった。
トリアスはパピに聞こえないようにワイルをチョイチョイと手招きすると、夕方に女性に声をかけられたことを話した。
「ほれがなんなん」
「今晩、彼女が夜這いに来ちゃうかもしれないの」
「どあほ」
ワイルは呆れ果てる。
「こんな大雨の真夜中に来るやつがおるかいな」
「うーん、だけど、約束したから」
「ちゃうやんか。窓開けるなって言われたんやろ?ほな、窓開けへんやん普通」
「逆、逆。ほんとにワイルったら分かってないんだから。女の言うことはみんな逆なの」
「はぁ〜」
ワイルは付き合っていられないとばかりに大仰な溜息をつくと、頭をぼりぼり掻いて、
「さよか。ほなら、女が迎えに来たら勝手に出て行ってどこででもやりなはれ。わし知らんけん。おやすみー」
壁側のキングサイズのベッドへ行き、先に寝ているパピを乱暴に壁際に転がすと、空いたところに滑り込んで寝てしまった。
それからトリアスはあれこれと妄想しながら女がやってくるのを待っていたのであるが、かなり時間が経っても誰かが窓の外に現れる気配はない。
そのうちにトリアスも疲れが出てきてしまい、豪雨の音もお構いなしに、窓を半開きにしたまま寝てしまった。
夜半、突然、ダンダンとガラスをたたく音が激しく鳴った。雨粒ではない、明らかに人為のものである。
「きた」
窓際で寝ていたトリアスはパチンと目を開けたが、あまりにも大きな音で、ワイルもパピも目を覚ましてしまった。
トリアスが窓の外を覗きみると、全身真っ黒な合羽をかぶった人間が立っていた。
「起きて!!」
雷と土砂降りの雨で、声はよく聞き取れないが、昼間の女に間違いなかった。
「どうして窓を開けたの!あんなに言ったのに!!」
「えっ…それは、夜這」
「とにかく入れてちょうだい!」
窓から無理やり入ってきた女は、黒い雨合羽を乱暴に脱ぎ捨てると、
「私はティナです」
と自己紹介もそこそこに、バッと部屋の扉を指さした。
「あなたたち早く、女の子の部屋に行きなさい!あの子が危ない!!」
「えええええ!?」
トリアスもワイルものけぞって驚いた。
「いいんですか!?」
テンパって意味の分からない質問をしてしまう。女はひどく焦れ、トリアスの手を強引に引っ張った。
「いいも悪いもないわ。手遅れかもしれないのよ。早く!」
「え、ってか、なに?なんで?なんでなんですか?」
「この町は、夜になると夢魔(メア)が来るのよ!」
「メアってなんですか」
「もう!!」
女は埒が明かないと思ったのか、ひとりで部屋の外へ出ようと走り出す。
「説明は後!魔物に襲われてるかもしれない。あの子を助けるのよ!」
「シーナ助けるグリ〜」
事情を把握したのかしていないのか、とにかく緊急事態だということは察したようで、パピもてちてちとついていってしまった。
「…ええんかな」
「…うん」
トリアスとワイルは気まずい顔を見合わせたが、もう既に部屋を出ていこうとしている女とパピを追うため、とりあえず寝衣のまま武器だけを手に取った。
四人はシーナに与えられた部屋の前に集まった。
ドアノブをそっと傾けると、鍵はかかっていないのが分かった。耳を傍立てると、激しい風雨と布がはためく音が聞こえる。
ワイルはできるだけ音を立てないように、慎重にドアを開けた。後ろにいる女に促されて、トリアスも隙間から中を覗き込む。
ドアから直線状、部屋の一番奥に、シーナの寝ているベッドはあった。その真上に大きな窓がある。
カーテンは閉められていたが、風でうねうねと揺れていた。窓が開いていることは明らかだった。
白い寝衣を着たシーナは意識がなかった。かすかに唇を開き、顎は上に反って白い喉元があらわになっている。
体は大きくのけぞり、しなだれるように手足をベッドの外側へ投げ出して、今にも落ちそうな体勢で眠っている。
そして、その腹の上に、何かが乗っていた。
背中を丸めた黒い達磨のような生き物がうずくまっているのだ。
「……!?」
なんだ、あれは?
トリアスとワイルは固まってその怪物を見つめることしかできなかった。
さらに、暴れるカーテンの間から、何か見える。カーテンは白い。その向こうの嵐の闇夜。その間になにかあるのだ。
馬の首だ。カーテンから馬がこちらを覗きこんでいる。
白目を剥いて歯を出し、明らかに興奮している。熱い鼻息を噴き出しているであろうことが容易に想像できるような顔だ。
異様だった。
その時シーナの体がビクンと大きく一回震えたと思うと、シーナは目を閉じたまま眉をひそめて「ハッ」とため息をこぼし、その姿勢のまま痙攣を始めた。
陸にあげられた魚のように全身を大きく反らせ、飛ぶかと思うほどビクビクと跳ねた。
その動きに合わせ、大きく呼吸するように唇を開いたり閉じたりしている。
そして醜悪な怪物は、そのままシーナの腹の上でロデオのように揺られていた。汚い黄色の瞳が、雷光を反射して光る。
あまりの異様さに動けないでいたトリアスとワイルの背後から無理やり首を出して覗き込んだ女が、
「あれが夢魔よ!!」
と叫んだ。
その声に弾かれたように二人は我に返り、ワイルはつんのめるように飛び出し、トリアスも慌てて弓を構え、引き絞った。
パピはオタオタとATKの準備をする。
シーナの腹の上で揺れる怪物は、シーナをあやまって射てしまう恐怖でとても狙えず、カーテンの中の馬の首に焦点を絞った。
部屋の中が雷光で真っ白に染まった瞬間、トリアスの矢は馬の剥きだした右目をヒュトンッと射た。
その瞬間ブルルルル、と大きな声で嘶き、馬の首は闇の奥に消えた。
残る達磨のような魔物にワイルは飛び蹴りを放った。ところが床を蹴った後でパピのATKが彼の体にかかってしまったので、
左脚が思ったよりもずっと速く右側へ逸れ、蹴りは命中せず体当たりを食らわせる形になった。
真っ黒な魔物の体は筋肉質で石のように硬く、鎧も身に着けていなかったワイルは痛みに一瞬目を瞑ったが、
シーナの上からそれを退かせることに成功した。達磨は、
「グワラ」と変なうめき声を漏らした後、ごろんと一回転してから、カエルのようにびょんびょんと飛び跳ねて窓から出て行った。
「…きしょこわる」
背筋がぞわりとしながらそれを見送った後、「窓を閉めて」という女の叫びに我に返り、
ワイルは慌てて雨戸を引き出すと窓に鍵をかけた。
女はこの間に、大きな明かりを部屋の中に灯していた。
「シーナ!いけるか?」
ワイルはベッドの下の床に滑り落ちていたシーナのもとへかがみこみ、抱き起した。トリアスとパピもそちらへ走り寄る。
シーナは眠っていたが、瞼が震え、頬を桜色に染めてかすかに荒い息をしていた。全身は汗で濡れ、カッと火照っていた。
「大丈夫、眠っているのです。夢を見ているの……起きて、もう大丈夫よ」
女がシーナに寄り添い、額の汗をぬぐいながら優しく頬を叩くと、ん…と小さく声をもらしてシーナは睫毛をふるわせ、目を開いた。
まだ意識がもうろうとしているようで、大きく胸を上下させながら、ぽうっとした顔で女を見つめている。
「シーナ大丈夫グリ?」
「しっかりせえ」
「ほら、みんないるよ」
仲間たちが口々に声をかけると、シーナは眠たげにまばたきを何度か繰り返した。
ワイルの胸に抱かれてくったりとしたまま、不思議そうにそれぞれの顔を見上げた。
「え…なに…?」
それからもしばらくシーナは状況が飲み込めなかったが、とりあえず自分が乱れた寝巻姿で、男二人(と一匹)に見降ろされている、
ということだけようやく理解すると、頭のてっぺんから足の先まで真っ赤になった。
「出て行ってーーーーーーーーーーーーーっっっ!!!!!!」
その叫び声は、つんざくような雷雨の夜だというのに、マカル村のすべての住人が聞いたという。
シーナが着替えて――ずいぶん時間がかかった――、男部屋に集まると、こっそりと話し合いが始まった。
「私はティナといいます。川の北岸に一人で住んでいます」
もう一度、女は丁寧に自己紹介をし直した。
「この町には、夜になると恐ろしい魔物が現れます。二匹で一対の魔物です。
馬の方がドーンメア、達磨の方がマッドロイドというのが本来の種名ですが、あいつらはそれの変異種で、特別な名前はありません。
私たちはフュースリメア、略して夢魔(メア)と呼んでいます」
ティナはあらためて、メアについて詳しく説明した。
「奴らが狙うのは女性だけです。寝ている隙に忍び寄り、悪夢を見せ、精気を吸い取って帰っていきます。
命を奪われることはありませんが、強い精神的な負担を残します。もうずっと長い間、この町はメアに襲われ、脅かされてきたのです」
四人はただ茫然と聞いているしかなかった。
精気を吸い取ることができる魔物がいる、それが魔物の糧になる、だから魔物が夜ごと夢を見せに来る。
そのような話はどれも初耳だった。
魔物にも知能が発達した種や、特殊な能力をもった種はいるのは知っているが、命を奪う目的でなく人間に干渉してくる魔物がいるとは。
それほど特別な存在をなぜマカル以外の誰も知らないのだろう?
「そのメアが見せる夢って、特別な夢なの?どんな夢だった、シーナ?」
「えっ…」
トリアスに尋ねられるとシーナはピキッと固まり、数秒して、「秘密よ…」ともごもごした。
ティナは「この子には聞かないであげてください」と、下を向いて言った。
意味が分からず顔を見合わせるワイルとトリアスに、ティナはため息をついて、
「もう私は33ですし…今更恥じる歳でもないから、言いますけど」
ワイルとトリアスに手招きをした。二人が顔を寄せると、
「性交の夢です」
聞いた瞬間、ワイルは大慌てで後ずさり、トリアスは逆に身を乗り出した。パピは意味が分からずにきょとんとしている。
「夢魔にはそういう力があると昔から言われています。それを利用したシステムです」
ティナは端的にそれだけ言った。
「シ…システム?って、なんですか?魔物が勝手にやってることじゃないの?」
シーナが恐る恐る尋ねると、
「違うの。これは、綿密に作られた人工のシステムなんです」
ティナはさらに奇妙なことを語り始める。
「ボアの町にある悪魔の門はご存知ですか?ダジオン兄弟が作った」
「はい」
「ではどのように悪魔の門を二人が守っているのかは知っていますか?」
「え?」
シーナは困惑する。
「どうって…二人の許可なしにあれは通れない。そして二人を殺さない限り壊れない。そういうしろものなんでしょう?」
「そうです。でも、維持はどうやってしていると思いますか。ヤンガーはこの町に、エルダーはムーラインにいるのですよ。
二人ともボアから離れている状態で、“守っている”というのはおかしくありませんか?」
「……」
「やはり知らないのですね。この町の者以外は…」
ティナはため息をついた。
「説明してもらえませんか」
シーナが言うと、
「本当は秘密なんです。でもあなた方は私たちのせいで巻き込まれてしまったのだから、お話しなければならないと思います。
でも、いいですか、分かっていてください。このことは絶対に…」
ティナは人差し指を唇の前に立てた。
秘密の合図だ。
黙って頷くと、ろうそくの明かりに覆いかぶさるまで寄り添って、四人は息をひそめた。
「ダジオン兄弟も十五年前までは人間でした。
兄の名はエルキュール。弟の名はジェハン。
かつてエルファリアでも屈指の秀才兄弟ともてはやされ、ムーラインの魔法学院大学を二人とも首席で卒業しました。
特に弟のジェハンは、2歳年下でしたが、飛び級で兄よりも先に大学を出たくらい優秀でした」
恐ろしいほどに賢い兄弟。二人はその頭脳に傲ったりはしなかった。寧ろもっと上を求めた。
しかし、異常にまで高い知能を持った代償か、仁や徳は欠落していた。人の道を踏み外しても気付かなかったのだ。
二人はムーラニア帝国へと召し抱えられる。
悪魔の力を授かり、魔物になった二人は、潤沢な研究資金と環境、そして衰えない頭脳と肉体を手に入れた。
ダジオン家はムーラニアでも有数の、著名な魔法使いや学者を輩出する一族だったが、
なぜかムーラニア帝国がおこってから数年ですべての血が途絶えてしまった。
噂では、ダジオン兄弟が次々と血族を自分たちの研究の実験台にし、手にかけていったといわれている。
帝国に魂を売ったことを家族と親戚から非難され、ダジオン家に腹を立てたのが発端だったと。
そして、この世でダジオンはたった二人になった。名前が要らなくなった二人は、エルキュールとジェハンをやめた。
ただの二匹の魔物、ダジオンエルダーとヤンガーになったのだ。
ダジオン兄弟は、魔物になっても研究を続けた。もともとそれが目的でシーラルと契約したのだから当然だ。
二人の専門は生物工学だった。そしてその成果はムーラニアの政治に還元されていく。
「普通の野生の魔物なら、昔から少なくなかったけれど、人間が魔物を使役することはありませんでした。
シーラルが魔物を軍隊として組織化できたことが、ムーラニアの支配体制を確固たるものにしたといえる。
そのために一役買ったのがダジオン兄弟の研究です」
魔物製造の効率上昇と安定化、兵力として適した種の選抜、そのハイブリッド化、そしてまた新たな魔物の開発に至るまで、
ダジオン兄弟はありとあらゆる研究に着手し、彼らの才能のもとでその多くが成功した。
その結果エルファリアは魔物の跋扈する恐ろしい世界と成り果てたが、二人は何も問題と感じることはなかった。
二人の類まれなる頭脳が限りなく卑劣で悪しき方向へ結集されてつくられたこの国は、彼らの夢が叶った理想郷だったのだ。
「兄弟の記念すべき最初の発明が悪魔の門です」
ティナは遠いところを見ながら、無感情に語り続けた。
「キメラ岩というのが南東にありますよね。あそこでは、メルドを使ってキメラ動物を生産していたのを知っていますか?
悪魔の門とは、キメラ作製の技術を応用して作ったものだそうです。つまり、生き物です」
エルダーは工学、ヤンガーは生物学のエキスパートだ。
ムーライン大学には、キメラを製作していた当時に研究されていた文献も残っていたので、それを掘り起し、
エルダーとヤンガーは協力して独自の生物工学を展開し進化させてきた。
そして、鉄の肉体を持ちながら、エネルギーを消費して半永久的に活動できる有機物、「悪魔の門」を誕生させた。
悪魔の門は生きているので、「餌」を食わせなければならない。
悪魔の門は有機物なので、当初、「餌」も有機物でなければならなかった。
悪魔の門が出来たばかりのころは、無謀にもこれを壊そう、あるいはダジオン兄弟を倒そうと挑み、格好の餌食になった者がたくさんいた。
しかしシーラルの恐怖政治が染み渡った今、悪魔の門に直接食われに行く人間などもうエルファリアに居はしない。
燃費が悪かったので、そこそこの獣の血や肉程度では不十分だった。
「魔物になっても、その頭脳は明晰でした…ヤンガーは、人の命を奪わずに悪魔の門に餌を食わせる方法を思いつきました。精神を食わせるのです」
理系の中でも、生物学・医学に従事する研究者は、他とは違う感性を必要とされる。
ヤンガーにはある意味人間的な発想を生みだす力があった。
人間だった頃、兄のエルキュールは堅物で女っ気のない人物だったが、弟のジェハンはハンサムで、女性経験が豊富だった。
それでジェハンは思いついたのだ。「女」を食わせようと。
生物学に精通したヤンガーは、女性を襲って精気を吸い取ってくることのできる魔物を製造した。
そうして集めた精神のエネルギーを、門の餌になりうる形に変換し、門へ輸送するプログラムを、最高レベルの工学技術を持ったエルダーが作り上げた。
人命を失うことがないし、精神の力というのは時間経過で回復するので、半永久的にそのシステムは使い続けることができる。
人知を超えたレベルの話だった。
「エルダーはムーラインで、魔物を製造しながら、その時に出る廃棄物や失敗作を門に与えています。
ヤンガーはここで…今説明したとおりです。そうして悪魔の門の運営をしているのです」
口にするのもおぞましそうに青ざめながら、ティナはそこで話を終えた。
「じゃ、つまりー、女子にエッチな夢を見させていかせまくって、そのエネルギーを魔物が吸い取っているんだ。
確かにあれはすごいもんね、無限にいっちゃう子もいるもん。男じゃできないことだ」
一人だけテンションの高いトリアスは、さも納得がいったげにウンウンと頷いて、一気に喋りながらパピを意味もなくナデナデした。
先ほどから話がよくわからなくなっているパピは、撫でられた気持ちよさで寝そうになっている。
「もういやぁ…」
シーナがとても耐えられないというふうに顔を手で覆って身をよじる。
ワイルはどういう態度を取ったものかと、ひとり葛藤した末にポーカーフェイスを貫くことに決め、とりあえず建設的な質問をティナにしてみた。
「襲われるんは、マカルの人だけなん?」
「はい。若い女性が中心に狙われます。毎日ではありませんが、雨の夜は必ず来ます」
「分かっとんやったら、なんでこの町から逃げへんのん」
「逃げられない」
ティナは冷え切った眼で言った。
「ヤンガーが傍で見ているのですよ。逃げれば分かる。そしてメアは執拗に追いかけてきます。
実際に逃亡を試みて、結局、戻って来ざるを得なかった家を見たことがあります。
若い娘のいる家庭は、かわいそうですよ…そこの子供が心に負う傷は計り知れないのだから。
家族が人質にとられているも同然ですから、男性も動けません。
外部の者に漏らしてはいけないし、いったいこんな話誰が信じるというんですか。
信じてもらえたならなおさら問題です。こんな話を知ったら、商人や旅人は誰も来なくなる。
もうこの町と、物品のやり取りさえしてくれなくなるかもしれないんですよ。
それにこのエルファリアに、今更どこにも逃げ場はありません。どこにいても地獄です。
それから…メアに襲われた家は、それから一定期間、税を納めることを免除されるのです。
そんな見返り、欲しくなんかないけど…正直それに安堵する気持ちも、なくはない。
私達は、何重もの見えない鎖に縛られています」
外部の人間であるシーナ達からすれば、多少疑問の残る話ではあったが、現に被害に遭っている住民がそう言うのだから、
実際ヤンガーの支配形態は想像以上に隙のないものに違いなかった。
肉体的なそれよりも、精神的な重圧の方がより人間は疲弊する。
あまりにも恐ろしい目に遭った彼らは、考えることを放棄してしまったのだろう。
そして、マカルの住人には旅人を歓迎する理由があった。
この日の夜、ティナは自宅の窓からこっそり確認して、シーナの部屋にメアが来ていると確信していた。
が、ティナは一般人で、武器も持っていない。一人ではどうしようもなかった。
男部屋の窓も開いていたのでそちらに回り、トリアス達に助けを請うたという次第だった。
男部屋の窓が開いていた理由はさておき、女部屋の窓はシーナが自らの手で開けていたわけだ。ティナはシーナに尋ねた。
「どうして窓を開けていたんですか」
「暑かったし…宿屋の人が、少しなら窓を開けるといいって言ったから」
シーナの返答にティナは、悲しそうに首を振った。
「やっぱり。本当は…そういう人の方が多いんです」
「そういう人?」
「他人ならどうなってもいいって思ってる人よ」
ティナは吐き捨てた。
「襲われるのはいつも一晩で一人だけ。あなたが犠牲になれば、この村の住人は助かるでしょう」
四人はぞっとして口を噤む。
「人間なんて、浅ましい生き物です。魔物が支配するこのエルファリアでは、みんなの心も歪んでしまいました」
「あのね、おばはん。ほんなんで済むこっちゃありまへんで」
ワイルはティナを遮ると、シーナを親指で指し示し、
「うちのは、箱入りのお嬢なんです。サーカスの看板やし、こいつをどないかされたら、わしらも黙っとらんけんね」
決然と言った。
「ワイル…ちょっと」
シーナは照れくさくなってうつむいたが、ワイルの荒々しい訛りに慣れていないティナは非常に怯えてしまった。
「ご…ごめんなさい。そうですよね…本当に、申し訳ないことをしてしまいました」
ティナは後ずさって、深々と頭を下げると、
「みなさん、夜明け前にここを発ってください。そして、二度と来ないことをお勧めします。私のできることは、それだけ…」
「いや、ほういうことやない」
まだ喋っているのにまたワイルはティナを遮ると、
「ヤンガーは今留守やんな?」
出し抜けにそう尋ねた。
ティナが戸惑いながら頷くと、ワイルは蝋燭から煙草に火を点けながら、
「ヤンガーのアジトみたいなとこ、ありますやろ?研究施設もついとうはずや。
そこまで、魔物のエンカウントが一番少のうて行ける道教えてつか。もっと言うたら、抜け道みたいなんがあったら一番ええんじゃけんど」
「抜け道…ですか?」
「ナイス、ワイル。そう来なくちゃ」
トリアスが嬉しそうに、左手をグーにして突き出す。ワイルは右手を無言で出し、トリアスの拳とゴツンと合わせた。
「え?」
ワイルの意図をトリアスが一番先に理解することは珍しかった。シーナが二人をオロオロと交互に見ると、トリアスはウィンクする。
「ボクらのシーナをこんな目に遭わせたオトシマエ、付けさせてもらうのさ」
「で…でも、戦ったって、倒せっこないわ」
「誰が倒す言うた。そもそも留守や」
「そ。ボクらができることは限られている。だけど、その中でヤンガーに一泡吹かせてやろうってわけさ。ボクらなりの流儀でネ」
ティナは心底驚いたようで、会話についていけなくなってしまった。大きな瞳はワイルの口元に注がれている。
トリアスのかいたあぐらの中でウトウトしていたパピのほっぺをつねって乱暴に起こしながら、ワイルは言った。
「夜明けに動くで」
抜け道は簡単に見つかった。
なんと、ティナの自宅の奥にある本棚の裏は空洞で、そこから伸びる川底よりもさらに深く掘られたトンネルは、ダジオンヤンガーの研究施設に直結していた。
ダジオンヤンガーが研究施設として使用している建物は、かつては神殿だった。
小さなラの泉がその中にあったため使いやすく、ヤンガーはそこにいた僧をすべて追い出したのち、研究を行うにふさわしいように改装した。
何を隠そう、前日四人がサーカスをやっていたのもこの施設の前の広場だった。
「この家には、時々魔物の隊長が中まで見回りにやってきます。今は出払っていますが、日が完全に昇りきる頃には戻って来るでしょう。
くれぐれも時間には気を付けて」
ティナはそう言って、本棚を横にガラガラと引き、四人を暗闇の洞窟へ送り出した。
ティナの家にそんな不自然な抜け道がある理由は、彼女の昔の恋人にあった。
なんと、僧侶だった男が、神殿に籠って修行する生活に飽き、愛する女の家まで一人でトンネルを掘り抜いたのだという。
ずば抜けた執念と煩悩の持ち主だ。
その男はとっくに死んでしまったそうだが、この愛のトンネルのせいでおそらく彼女は今、メアの被害を最も受けやすい立場にあった。
それゆえにいまだに家庭もなく、独りで生活しているらしかった。
「それで、あんなにダジオン兄弟やメアに関する詳しい情報を持っているのにも関わらず、ここから逃げ出さないんだ。
たぶん寵姫ってヤツ、いわば、ヤンガーの女なんだよ。ヤンガーって、昔はプレイボーイだったって言うしさ、あの人綺麗だもんね。
手籠めにされちゃったんだ。かわいそうな人なんだネ」
ランタンを掲げながらトリアスが軽口を叩く。
錆びた銅板がごつごつした岩肌に埋め込まれているが、そこに書かれている字は暗くて読めなかった。
うねるトンネルはかなり狭く、一列にならなければ進めない。距離は短いようだが、酸素が薄いのでもたもたできなかった。
「まさか、あの人がヤンガーと通じてるってことはないわよね」
「んー、嘘をついてる感じじゃなかったグリ」
「そうだね〜、哀しい眼をしてたから。ヤンガーのやってるのは支配であって、洗脳ではないってことだろ。
彼女は心からボクらを心配して協力してくれたと思うよ」
「そうなの…」
「たぶんな、しらんけど。ほの証拠に、誰もおらへん」
先頭を進んでいたワイルが、干し草のようなもので蓋された出口を開けて外へ出る。そこは神殿の裏で、川に面した土手の淵だった。何の気配もない。
朝靄が深く、川向うは何も見えない。身を隠して移動するなら今ほどの好機はなかった。
シーナが神殿の正面へ回ろうとすると、ワイルが制する。
「玄関から忍び込むアホがどこにおるん」
「だって、じゃあどっから入るのよ」
ワイルは神殿の白い壁を丁寧に触りながら調べているところだった。
「研究施設っていうんはなぁ、絶対に裏に搬入口があるんよ。表から出入りようせんようなヤバいもんを連れ込んだり、廃棄したりするためにな。
ほら、ここ」
言いながら、ワイルは白い壁の一部分に手を当てた。そこはまったく壁と一体化しているように見えたが、よく見ればわずかに他の部分と色が違っていた。
ワイルの手が壁の中に数センチ沈み、そしてまた出てきたとき、手のひらサイズの面積の壁が突出してきた。
そして、今まで壁の中に隠れていたその側面に、鍵穴が付いていた。
「すっごーい!なんで知ってンの?」
「仕事やったけんじょ」
はしゃぐトリアスをうざったげに流しながら、ワイルが腰のポケットから取り出したのは鍵束だった。
よく見ると鍵ではなく、それはすべて針金だ。微妙に違うパターンで複雑な曲がり方をしているそれらの中から、
ワイルは鍵穴の中の方を見つめながら一つ選び出すと、鍵穴に差し込んでぐりぐりと動かした。
ほどなく、カチンッと小気味よい音が響いた。ワイルはにやりと笑う。
「さっすがあ。盗賊(スカウト)らしいところ見せるじゃん」
「あたりきしゃりき、さんしょのき。ぶりきにたぬきにちくおんき」
意味は良く分からないが、機嫌よく歌うように節をつけて言うと、ワイルは扉を開けた。
取っ手がないので、少しの壁の凹凸を指にひっかけ、障子のように横にスライドさせる。
そうして開けてみると、なんと神殿の裏の平坦な壁に見える部分はほぼすべてといってもいいくらい、大きな扉であった。
大きすぎて、扉と建物の継ぎ目が目に留まらない。簡単だが盲点をつくトリックだ。
四人はスルリと中へ入り込んだ。
その向こう側にあったのは、大きなシャッターと、その横にちょこんとついている普通にドアノブのある小さな扉だった。
この小さな扉にも鍵がかかっていたが、簡素なもので、ワイルはこれも容易に開けた。
「セキュリティのレベルがたっすい」
世界屈指のレベルの研究を行う施設にしては警備が甘すぎるとワイルは不気味がったが、
他のメンバーはすんなりと入れたことに文句を言ったりする意味が分からない。
ドアの向こうはいかにも実験室らしい部屋だった。薄暗く、天井に灯りはない。
研究室全体を浮かび上がらせるように、床は無機質なブルーに光っている。
大きな機械が四隅を埋め、本棚にはぎっしりと詰められた分厚い書物。
中央には小さなラの泉があるが、色が紅く染まっていて、ポコポコと奇怪な泡が吹き出ていた。
泉の中からは何本も大蛇のようなパイプとコードが伸び、それは泉の目の前にある机に置かれている機械に繋がっている。
泉を覗き込んだトリアスが、気味悪そうに眉をしかめた。
「何か中に入ってる。波と泡でよく見えないけど、生き物みたいだ」
「ラの乱れから魔物は生まれる。ムーラインほど大規模じゃないけど、ここでも魔物を作っているんだわ」
机は大きいが、紙束で埋め尽くされている。手前にヤンガーが座るらしい大きな椅子が鎮座していた。
機械のアイドリング音が耳障りだが、相変わらずなんの気配もない。侵入には成功したようだが、
「ところで、これから何するの?」
「ノープラン」
「ノープラン!?なにそれ!バカじゃないの」
「そう言われても、ボクは常にこんな感じだし。ダメだよ、ふたご座B型の男に何も考えずにホイホイついてきちゃ」
トリアスは他人事のように涼しい顔をして言う。
「みずがめ座O型の男にならプランあるかもよ」
指名されたワイルは、しかし、
「特にない」
即答する。シーナはあきれ果てた。
彼らがシーナの身が危険に曝されたということに怒り、シーナの為に動いてくれたという事実が少し嬉しかったのに、ひどく裏切られた気分だ。
「あんたたち死んだら?」
「まあ、ほない怒んなや。とりあえず、この機械をめいで去ぬだけでもええと思うんよ」
ワイルは机の上の、大きな画面と筐体が一体になっている機械を指さす。
それは主無き今もまさに稼働しており、間欠的に響く電子音とともに、
画面の中で何かの生命維持を示すらしき正弦波が明滅しながら右から左へと流れていた。
「精密機械やけん、すぐバグりよるで。たとえばここの筐体の中にタヌキの毛玉をつっこむとかしとけばええ」
「なんかやり方がセコいな」
「せっかく心臓部まで来たのに、もっと何かできない?メアの動きを止めたり、能力を失わせたりとか。
殺してしまうとすぐばれるだろうし…この機械をいじって、それができたらいいんだけど」
シーナは雑然と散らかった机の上を調べる。
ヤンガーはあまり整理整頓に気を遣わないタイプの研究者らしく、長い計算式を書いた自由帳の切れ端や、
公務の資料プリントの間に、書きかけの論文のデータらしい図や表などがパラパラと挟まっている。
日付からもっとも最近書かれたと思われる手書きのメモがあったので、出してきて読み始めると、
「なんにも見えないグリ!」
背の低いパピがイライラしてピョンピョン跳ねるので、シーナはパピを抱き上げ、机の上に乗っけてやった。
メモにはこのようなことが書かれていた。
『マクロモレキュールの構造改変を起こし、リブロースビスリン酸カルボキシラーゼの働きを阻害する
SRSF7のノックダウンはアポトーシス関連因子の発現を誘導しない←確認
全てのスプライシングパターンチェック→済
くじらのノンコーディングRNAとウルトラコンサーブドリージョンの一致点
RNAの含有量は固有種の三分の二〜二分の一とする→夢の中に入る為
胚性幹細胞株の在庫なくなる前に発注
依頼→エル
発現ベクターのインサートをPCRで作製する用のプライマー
必ず5’末端はT以外』
「……」
しばらく四人とも無言でそれを見つめた後、
「ヤバイ。全然わかんない。パス、ワイル」
「パス、シーナ」
「ええっ!?」
コンマで回ってきたパスにシーナは動揺するが、
「わし、学校や行ってないけん」
「ボク、高いのは顔面偏差値だけなんで」
ワイルもトリアスも悪びれずにさらりと言ってのけた。学歴にプライドがなさすぎるのも考えものである。
「うぅ〜…」
シーナは頭を抱えた。
実はシーナも、学校は行っていない。幼い時分、シーナは住居が定まっていなかった。
各地を転々としていて、学校へ通う余裕などはなかった。
ただ、祖父がちゃんとしたムーライン大学魔法学科の卒業生で、不自由な中でもシーナにきちんとした教育を施してくれた。
どこかにつてがあったらしく、大学から専門書を取り寄せてくれ、シーナは家で祖父とともに魔法の勉強をしていた。
「基礎的なことならあたしでも少しはわかるけど…これ、バイオサイエンスの中でもすごく専門的な内容だと思うわ。
キメラを作るって、生物の中のラをいじるってことなんでしょう?ヤンガーはそっちの方の権威だっていうし、こんなのわかりっこないわよ」
そう言いながら、シーナはディスプレイとメモを交互に睨めっこする。
メモの中で『夢の中に入る』というフレーズが、妙に浮いている。
おそらく、これはメアの能力のことを指していて、筆跡やインクの色の染み具合からこのメモは一気に書かれているので、
このメモ全体がメアに関するものであると思われた。しかし、それ以外の記述は何のことか見当がつかない。
なんとか解読の手掛かりを掴もうとして頭を悩ませていると、突然『ポーン』という電子音が鳴り、シーナは飛び上がらんばかりに驚いた。
何も触れていないが、ディスプレイの中には勝手にウィンドウが開き、文字が羅列されはじめる。
『mail: from EL』
「メイル…フロム、エル?手紙かしら」
「っへー、こんな文明的な手紙使ってる人いるの。マジ、サイバーってヤツ」
差出人欄は兄、エルダーのようだ。
続く文章はかなり長かったが、つらつらと勝手に表示されていくので、四人はそのままそれを読んでいった。
『ジェイ元気か。こちらはOKだ。
頼まれていたプライマーだ。1番以外にも候補をあげておいたから試してみろ。
ヘイフリットの学説を否定することは可能か?
テロメアのキャップを外すよりも延長にとどめておいた方が安全ではないかと思う。
エルザードの肉体でRNA分子は自己触媒として成立しなくなってしまった。
これは4億年前に栄えたRNA世界からの脱皮がエルザードの肉体において完了していることを示している。
すなわちエルザードは進化した新時代の生命体だ。なのになぜこんな原始的な自己融解を防げないのだろう。
DNA損傷が修復率を上回る。XPDの欠損が後天性に起こるとは考えにくい。
忌々しいセントラルドグマを打ち破れると思ったのに、とんだ誤算だ。
ジェイに考えはあるか。聞かせてくれ。ただあまり無茶はやるなよ。シーラルはセルラインではないのだからな。
壮大なin vivoを無下に終わらせたくないだろ。俺のことも考えてくれよ。
No mispriming library specified
Using 1-based sequence positions
Product size: 132, pair any compl: 4.00, pair 3’ compL: 1.00
1 cctgttccagagacggccgcatcttcttgtgcagtgccagcctcgtccccgtaaat・・・
61 ggtgaaggtcggtgtgaacggattggatttggccgtattgggcgcctggtcaccagggctgccat
541・・・ >>>caacttggcattgtggaaggg
661cagaacatcatccctgcatcc<<<・・・
Keys(in order of precedence)
>>> left primer
<<>>caacttggcattgtggaaggg agaacatcatccctgcatcc<<<』
という記号群だけがどういうわけか、画面の中に残った。
その記号群が綺麗に整列して、軍隊が行進するように、正弦波を流しているウィンドウの方に流れていく。
「なにこれ。誰も触ってないよね。ヤンガーが遠隔で操作してるの?」
「そうかも…それか、エルダーの手紙が届いたら、自動的にここだけ抜き出せるようなプログラムを組んであるんじゃないかしら」
「そもそも、このCとかAとかいうのなに?」
「意味は分からないけど、コマンドワードだわ。ゴーレムを操る時に使うものと似てる。
術者にしか動かせないように、ゴーレムには作り手が独自のコマンドワードを設定するの。
キメラも同じように動かすはず。それを応用したものじゃないかしら…
ダジオン兄弟は、新しい魔物を生み出すことができる。今、それをやっているのよ」
そう話している間にも、記号群が正弦波のウィンドウに集まり、入力され始める。
すると、規則正しく流れていた正弦波がふいにぐらりと乱れ、止まった。
機械はカリカリというアイドリング音をやめ、代わりに明らかに処理の重い動作をしているブゥーンという音を出し始めた。
筐体と泉をつないだダクトのうちゴム製のものが、ドク、ドクと不気味に動き出す。
「新しい魔物ができはじめたのか?」
「止めなきゃ!」
「どうやったら止まるの?」
「わかんない〜」
シーナ達があたふたしていると、今までずっと黙って画面を見ていただけだったパピが、
「こんなことしちゃだめグリ」
不快そうにつぶやくと、
「クリア」
パピは短い単語を喋った。
すると、画面の中の虫のような小さな文字がカシャカシャと音を立てて、幾つかは消え、幾つかは増えた。
パピはクルリと三人の方を振り向く。
「できたグリ」
「えっ…なにが?」
「これ、もう、人間を襲わないようになったグリ」
パピの言葉に三人は仰天する。
「うそ!ほんと!?なんで!?どうやったのパピ!!」
シーナはパピをひっつかんで質問攻めにしようとしたが、その時ワイルは水槽を覗き込んでいた。
泡立ちが不規則になり、水面が波立つほど大きな泡がボコッ、ボコッと出てくるようになった。
先ほど入力されたコマンドを受けて、生物が創られようとしているのだ。
「はようずらかるで」
ワイルは、パピを脇へ抱え込むとドアへと走り出した。シーナ達も後を追うしかない。
全員が出るとワイルは綺麗に部屋の鍵をかけ直し、数分後には全員、何事もなかったかのようにヤンガーの実験室から滑り出ていた。
奥からびしゃびしゃと水音が聞こえてきたが、無視して全力で走った。
ティナの家の本棚を何事もなかったかのように元通りずらし直すと、四人はようやく大きな息をついてへたりこんだ。
「良かった、無事で!もうすぐ魔物の隊長が帰ってきます。早く宿に帰って!」
ティナは待ち詫びていた様子で、落ち着きなく辺りに目を走らせながら言った。
ワイルの手を引っ張って立ちあがらせ、他の三人にもやれ行けそれ行けと急かすので、
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってって」
這う這うの体で四人はまたティナの家から宿まで走らなければならなかった。
四人は、宿屋の自分たちの部屋に泥棒のように窓から入った。
宿屋の主人が様子を見に来たが、「チェックアウト、延長します!」と早々に追い返した。
パピに、あの研究室で何をどうやったのか聞き出そうとしたが、眠気が限界に来たパピは倒れるように寝てしまったので、
朝食を取ってパピを待つことにし、その後は寝不足がたたって結局残りの三人も眠ってしまった。
全員が目覚めたのは昼過ぎで、朝食を逃したパピだけに食事を取らせてやりながら、彼らは改めてパピに話を聞いた。
ポテトサラダとオムレツを挟んだサンドイッチをおいしそうにあむあむと食べながら、えっちらおっちらパピが話すところによると、
「あいつらに乱されたメアたちのラを、元に戻したグリ」
なんと、パピはダジオン兄弟がどのような改造を魔物に施したのか理解していた。
もちろん、パピに学はない。もはやこれは超自然的な感覚で、ラを操れるという特別な種族、グリフであるパピにしか理解しえないものだ。
パピも幼く、また感覚でしか理解していないこともあり、根本から何もわからないシーナ達に説明するのは困難を極めた。
どうやって呼吸するのかを、それをしたことがない者に説明するようなものらしかった。
ラは生物を構成するものであるが、ダジオン兄弟は、目に見えないほど細かな部分のラまで操作する技術をもっていた。
そもそもラとはなんなのかという問いに、パピが正確に答えることができなかったのでそこがよく分からないが、とても小さな粒子のようなものらしい。
莫大な量のそれが集まってできているのが生物である。空気中を含む自然界全体にラは満ちている。
それを消費して魔法を使い、息を吸い、食べ物を食べてみんな生きている。
メアはなぜ、精気を吸いにやってくるのかというと、メアは食物を食べて自らの栄養にすることができないからなのだそうだ。
メアはその機構を、意図的にダジオン兄弟によって破壊されてしまった。
メアが生きていくためには、精気を吸うしか手段がないようにプログラムされている。
そしてメアは栄養が欲しいという本能の欲求に従って精気を吸いに行き、帰ってくると、あの泉に沈められ、せっかく獲得してきた精気を抜かれてしまう。
生命維持に最低限必要な養分は泉を通して与えられるが、メアはいつも空腹なのだ。そして、また雨の夜には精気を求めて彷徨わざるをえなくなる。
余計なことを考えないよう、脳の思考回路の一部がこれもダジオン兄弟の操作で遮断されており、逃げ出すこともできない。
「かわいそうなメア。あの魔物はダジオン兄弟に利用されるためだけに存在しているのね」
パピはあの場で、その不自然な改変部分をもとどおり修正した。
機械の構造を理解しておらず、そもそもあれにふれもしていないパピがなぜその操作を行えたのかはさだかでない。
パピの天性の能力であり、それがグリフの力だと言うしかない。
「タヌキ、なんかよう知らんけど、ほんまはすごいんやな」
半信半疑な顔でワイルが呟く。パピはムッとして、
「グリはグリフの王子様グリから、すごいのは当たり前グリ」
と主張したが、
「しょうもない。ほれを自分で言うな。言うけん、あばさかりよると思われるんじょ」
ワイルにほっぺをつねられてしまった。
「いじめるのはやめなよぉ。とにかく今回はパピの大手柄なことに変わりはないじゃン」
特に咎める気があるような声音でもないが、トリアスが笑いながらワイルからパピを救出してやる。
「うえぇ…グリはただしいことをしたのに…ぐすぐすグリグリ」
「ああ、泣かない泣かない。いい子いい子、パピはいい子だよ〜」
「ナデナデして…」
「はいはい」
「こんなことしてよかったのかしら」
シーナは窓の外を見ながら小さな声で呟いた。
「またあたし達、リリの時みたいに、余計なことをしたんじゃ…
データを改竄したことがヤンガーに知れたら、マカルの人はもっと苦しむことになるかもしれない」
「だいじょうぶグリ」
トリアスに撫でてもらって機嫌の直ったパピが、のんびりと言う。
「あの二匹のメアは、本来あるべき姿に戻ったのグリ。誰かから奪ったりしないで、自分の体の中でエネルギーを作れるようになった。
だけどそれだけ。メアたちはそのまま存在し続けるし、これからは栄養を求めて人を襲うことはないグリ。
エルダーが作ったっていう、メアからエネルギーを取り出す仕組みもそのままグリ。
あるべき姿に戻ったのだから、これが一番自然で、合理的なのグリ。つまり、ばれないグリ」
もし、メアから搾取できるエネルギーが不十分だったとしても、それにヤンガーらが気が付くのは、だいぶ先のことになるだろう。
そしてその時には、悪魔の門は疲弊している。破壊するチャンスだ。
「その時がくるまでは、黙っておこうよ。昨日からの事、すべて」
トリアスは人差し指を唇の前に立ててみせた。
秘密の合図だ。
四人は何かを誓う儀式のように、人差し指を唇の前に立て、笑いあった。
ティナにだけは真実を伝えておこうということになり、四人は旅立つ直前、彼女の家を再度訪問した。
「そういうわけで、もうティナさんも、メアに脅える夜を過ごすことはありません。本当にお世話になりました」
話を聞いて、ティナは信じられない様子で瞬きを何度も繰り返した。
「すごい…あなたたちは…何者なんですか。勇者様ですか?」
「まさか。ただの旅芸人です」
「そう…ですよね。だけど、本当に勇者様みたいです。とても不思議で、すごい人達。
そういえば私、あなたたちと会ったことがあるような気がします。昔…そう、とても昔です。
そんなわけないですよね…でも…そう、あなた。あなたです」
ティナはワイルを見た。ワイルは首をかしげる。
ティナはワイルの右手を取り、両手で包んだ。
「あなたの喋っているのを聞いて、最初は驚いたし、ちょっと怖かったけど…やっと思い出しました。
あなたの使ってる言葉は、昔おじいちゃんやおばあちゃんが使っていた言葉と同じです。
喋っているところをムーラニア軍に見つかると罰を受けるので、私たちは標準語しか使えなくなり…もう今では、喋り方も忘れてしまいましたが」
ティナは目をきらきらと少女のように輝かせてワイルを見上げた。
「懐かしいあなたの言葉、とっても、あたたかい。
美しい緑の園だった頃のエルファリアが、昔好きだった人との思い出が、あなたの言葉を聞くと今ここにあるように見えます。
あなたの言葉は、エルファリアの財産です。どうか負けないで」
ワイルは面映ゆげに笑って、言った。
「ありがとう」
四人は荷物を背負い、帰路についた。
一番重いものやかさばるものを背負う役はいつもトリアスだ。
外見はヘラリとした優男だが、さすが訓練を積んだ兵士だけあって、顔と体型に見合わない持久力を持っている。
40キロ以上の荷物を持っていても、平地ならば息切れもしない。疲れるまでずっと喋っているので、迷惑だが、頼りにはなる。
意外と縁の下役なのだった。
そのトリアスが両腕を天に差し上げて伸びをしながら、ため息をついて言う。
「あー、よかった」
「なにが」
「ティナさんだよ」
「ほのなにが」
面倒くさそうにしながらも話し相手になってやるワイルに、トリアスはにやにやと笑いかける。
「あの人ワイルのこと好きなのかと思ったんだけどな」
「はあ?」
「だいぶ最初の方からね。あの人がワイルのことばっかりチラチラ見てたんだよ。
ボクよりワイルの方が好みのタイプのアレかと思っちゃって、ホントに。でもそうか、
言葉かぁ。がっかり半分安心半分ってカンジかな〜、なぁんだあ〜、もう〜、よかったぁ、ウフフ」
「お前はほういうことしか考えれんのか。悲しい頭やな。ダジオン兄弟に脳みそ分けてもらえ、アホがマシになるで」
「ひど〜い」
と言ったものの、トリアスは気を悪くしたふうでもなく、口笛を吹いた。
「ところでもうひとつだけ、わからないことが残ってる」
「なにが」
「シーナがどんな夢を見たのかさ」
前を歩いていたシーナがその瞬間ピキッと固まったので、後ろのパピはまともにぶつかってしまった。
ワイルはやれやれとため息をついて、それからはだんまりを決め込むことにする。
どう止めたところで、トリアスはやめない。喋れない状態になるまでは喋り続ける男なのだ。
「秘密」
シーナは前を向いたままそれだけ答える。
「え〜、どうして」
「秘密」
「教えられないほどスゴイってこと?」
「秘密」
「やっぱりそうなんだ」
「絶対に、絶対に秘密―――――っっっっ!!」
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