HIDE AND SCREAM

きみが深淵を覗き込むとき、深淵もまたきみを覗いているのだ。 フリードリヒ・ニーチェ 「善悪の彼岸」 「あ、すきまがあいてる」 アルディスは本から目を上げた。 「ほら、あそこ」 向かいのソファには、砦一おしゃべりな同僚がいる。 指さす先を首を振り向けて見ると、部屋の扉が少し開いていて、隙間風でかすかに揺れている。 アルディスの側からは、背中を向けているのでその扉は見えなかった。 寒くもない時期だし、放っておけばいいのではないかと思い、再び本に目を落とそうとしたが、 「気になるなあ。閉めて来てよアルディス」 場違いに明るい声がそれを遮る。 「…」 反論するのも時間の無駄なので、アルディスは立ち上がった。 (そんなに神経質な奴だったかな) 「トリアス、気になるんならこれからは自分で…」 言いながら振り返ると、彼は鼻歌を歌いながらこれから読むべき雑誌をあれこれと見定めているところだった。 (見てないじゃないか) 呆れて溜息をつき、アルディスは扉を閉めた。 フォーレスの若い兵士達は、そのほとんどがフォーレス城の側に構えられた兵士寮で暮らしている。 彼らの一日は、戦のないときは緩慢に過ぎていった。 一通りの訓練を終えるとあとは自由である。 寮に帰って飯を作ったり、洗濯をしたり、ゲームに興じたり、生活に必要なものを揃えるため城下に買い物に出かけたりする。 アルディスは大概、友人のトリアスと過ごしていた。 トリアスはアルディスよりも少し年上だったが、気さくで威張ったところもなく、ともに時を過ごす友としては気分のいい存在だった。 ただ、トリアスはなぜか時々、戸締りをおかしなくらい気にした。 寮は古く立てつけが悪いところもあり、扉のちょうつがいが緩んだり、若い兵士が雑に開け閉めして、扉がよく開いていた。 「閉めて来て」 「閉めて来て」 「開いてるよー」 「開いてるよー」 そのたびにトリアスはそう言って、アルディスに閉めに行かせるのだった。 (なんなんだろう…俺は利用されてるのか?) パシリという言葉が頭に浮かぶ。 (年下だからなめられてるんだろうか…最近はもう同僚にもいじめられなくなったのに) 肩を重くしながらのろのろと扉のほうへ向かう。 不用心だということを言いたいのだろうか。しかしここは城の兵士寮だ。 関係者以外がまぎれこむ理由もないし、若い兵士の持ち物しか置かれていないのだからさほど高価な代物もない。 扉の隙間から見える長い渡り廊下には誰もいなかった。 トリアスを振り返る。彼は鼻歌を歌いながら気に入りのピンナップをめくっていた。 (見てないのにどうして気にするんだろう) アルディスは扉を閉めた。 訓練所で兵士たちがめいめいに一人稽古をしている時だった。 アルディスが一通り槍の諸稽古のノルマをこなし、休憩に入ろうとトリアスの座っていた長椅子に並んで座ると、 「ねえねえ」 間髪入れずトリアスが話しかけてきた。 「すきまがあいてるよー。閉めて来てよ」 見ると、訓練所の分厚い扉が少し開いていた。 (またか…) うんざりしたアルディスは、 「…今疲れてるから後にしてくれないか」 適当に流すと、今度はトリアスは木人を相手に稽古をしていた女兵士のジェニスに向かって、 「じゃあジェニスでいいよ。閉めて来てくれない?」 「?いいわよ」 何も知らないジェニスはこころよく受けると、扉の方へ歩いて行こうとした。 (こいつ、ジェニスにまで―――!) その様子にアルディスの頭に一瞬血が上り、 「よせっ」 ジェニスを手で荒く制すると、トリアスの前に立ちはだかった。 「なんなんだいつもスキマスキマって。俺だけならまだしも、人のことを使って我儘にも程があるぞ! そんなに気になるなら自分で閉めに行ったらどうなんだ!」 トリアスは友人の激昂を浴びて目を見開いて驚き、一瞬おいて、今にも泣きだしそうな顔をした。 アルディスは戸惑った。 ジェニスはアルディスの後ろで、流れが把握できず不満そうにトリアスを覗き見ようと背伸びしている。 トリアスはうつむいて呟いた。 「ごめんよ…ボクだってこんなこと言いたくないよ。でも、ただすきまを… 本当にただ… 閉めてくれるだけでいいんだ」 トリアスの目は一瞬扉の方へ移動したが、すぐに逸らされた。 なにかに脅えるように。 「だってキミには」 夜。 宿屋の四人部屋だった。 シーナは鏡台の前に座り、風呂上がりの濡れ髪をブラシで丁寧に梳いていた。 ワイルはベッドを背もたれに床にあぐらをかき、煙草を咥えて新聞を読んでいる。 パピは窓際のベッドの上でうつらうつらと舟を漕いでいた。 トリアスは入口付近に据えられたチェアに腰かけてギターの手入れをしていた。 それは眠る前の、その日わずかに残った穏やかな時間であるかに見えた。 その時、シーナが、鏡を向いたまま、ぽつりと呟いた。 「すきまがあいてるわ」 その声に、トリアスは顔をあげた。 「ほんまやなあ…」 新聞を少しだけ傾けながら、ワイルがゆったりと言う。 「すきまが、空いとんなあ」 煙草を口元から離すと、灰皿にキュッと押し付けて消した。 「グリグリッ。スキマ グリグリ」 パピがいつの間にか目覚めていた。 すきま? トリアスは横目を動かす。 扉を背にしている彼には、完全に視界からは外れている。 風が吹き込んでいるのがわかる。 わずかな風が。 「閉めて来てよ、トリアス」 シーナが言った。 口元に笑みを浮かべながら。 トリアスは黙っていた。 「頼むわ。お前が一番近いけん」 ワイルも軽く相槌を打つ。 トリアスは黙っていた。 「… おねがい。トリアス」 パピが言った。 トリアスは黙っていた。 部屋を静寂が支配した。 それはいったいどのくらいだったのか。 ほんの数秒だったのだろうか? トリアスはニコッと笑って、言った。 「いいよ♪」 そしてトリアスはギターを椅子に立てかけて、立ち上がる。 ゆっくり扉の前へ歩いていく。 こつ、こつ、こつ。 足音が嫌に響いた。 シーナはうつむいている。 ワイルは新聞を広げたまま、横目でトリアスを追っている。 パピのくりくりした目は、今はガラスのように無機質だ。 トリアスは暗闇に寄り添うように、扉の前に立った。 扉の外の、自分の真正面に見える景色を眺めるともなく眺めた。 そして、見下ろす。 巨大な、瞳だけのモノと、目があった。 トリアスは扉を閉めた。 バタン。 だってキミには、見えないんだろ?


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