The Sixteen Is the One Circle
鳥谷直(とりや すなお)はひたすら三重苦に耐えていた。
彼は大手製薬会社に勤める傍ら、趣味でバンドをやっている。
しかしライブ前の機材搬入の際に超重量のアンプを自分の足に落っことしてしまい、
全治二ヶ月の踵骨骨折で現在加療中である。
「このマヌケ!来週にはジャズフェスに来てくれっていう話もあったのに!
全部キャンセルだわ!どうしてくれんのよ!!」
ベッドサイドで怒り狂っているのはボーカルの椎名由衣(しいな ゆい)である。
骨の隙間に彼女の怒声が染み渡り、鳥谷には言葉の意味以上に痛々しく響くのであった。
「ごめんよ、シーナ…」
怒れる歌姫にとりあえず謝り続けながら、彼は自らの仕事仲間たちに想いを馳せる。
「どうしよう〜…仕事山積みなのにこれじゃ足引っ張りまくっちゃうよ…
有出のヤツ怒ってんだろうなぁ〜、見舞いにも来てくれないんだもん…」
サイドボードには今朝の新聞があった。
「どうすんのさ?」
「どないしょうになぁ」
初夏の日差しが照りつける繁華街のオープンカフェで、
二十代半ばの痩せぎすの男・和井田芳保(わいた よしやす)と、
キャップを被った十歳ほどの少年・羽曳野清彦(はびきの きよひこ)がだらだらと会話している。
「ヤス、今月の家賃払えんの?」
「今月はいけるけんど、来月の保障はないなあ」
「困ったねー」
「おまはんに心配されることとちゃうわボケ」
ワックスでツンツンに立てた髪にレザージャケットを羽織り、一見してヤクザ風の和井田は、
咥え煙草で経済新聞を読んでいる。その隣で椅子の高さに足りぬ長さの足をぶらつかせながら
ちょこんと座る清彦。
およそその場にふさわしくなく、又二人組みとしてもこの上なく奇異な組み合わせである。
「鳥谷の心配でもしたったらどないじゃ」
彼はひどい四国訛りで、生来標準語を使用する人間にとっては非常に理解に苦しむものであったが、
全く意に介さず清彦少年はアイスを食べながら漫然と答える。
「スニィのことはどうでもいいんだ。どうせ死なないだろうし、
グリはスニィがいない間ドラムが叩けないグリが一番かわいそうなんだもん」
「ほんなひねくれた根性であくか、ジャリ。腐ってもバンド仲間やろ!」
「いたいたいたいたい!!ウソ、うそうそ、うそですごめんなさーいー」
和井田にゲンコで頭をグリグリされながら清彦は、
「だって、みんなスニィのせいだよ。スニィがいなくなってからシーナがずうっとすっごく怒ってるじゃない。
グリ、シーナが怖いのが一番いやだよ」
「…」
メンバーを欠いたことで生じた仲間の動揺は、幼い彼が一番強く感じているのに違いない。
和井田は「ほうやな」と呟いてグリグリをやめ、代わりに清彦の頭をぽんぽんと撫でて、
再び経済新聞に目を落とした。
「鳥谷はほんまについてない。最近のフォーレスの株価の下がり様はハンパない。どないかしたんとちゃうやろか」
「ん〜?」
「取って代わるようにごつう勢力を伸ばして来よるんはムーラインじゃ。
ほんなにすごいことしよる会社でなかった気がしたけどな。贈収賄でもあったんかいな」
「ふう〜ん」
「ジャリ、人の話聞っきょる時ぐらいチューペット吸うんやめいだ」
「チューペットじゃないよ、パピコだよこれ」
「どうでもよろしわ…」
新時代を切り開く生化学者として名を馳せている宇原明治郎(うはら めいじろう)教授。
松永海瑠(まつなが かいる)はその助手で、見習い学者として住み込みで働いている。
海瑠の両親、松永丈二と倫子は息子を残して早くに亡くなったが、二人とも世界的に有名な医学者であり、
明治郎とも深い交流があった。自分より随分若かったが、二人を明次郎はとても尊敬していた。
息子・海瑠は多少ぐうたらなところが玉に瑕だが、親の才を十分に受け継いでおり、
将来一流の学者に育てるため、天涯孤独になった海瑠を明治郎が養子に近い形で引き取ることになったのだ。
明次郎の孫娘、宇原蘭世(うはら らんぜ)は密かに海瑠に恋していたが、鈍い海瑠が気付くはずもなく、
勿論自分から言い出せもしなかったので、
生活習慣がこの上なくだらしない海瑠の世話を焼くことで恋心を育てていた。
「う〜む」
その日明治郎はしきりに唸りながら腕組みをして研究室を歩き回っていた。
「おじいちゃんたら、さっきからなに徘徊してんの?邪魔なんだけど」
アイロンの当て終わった清潔な白衣を持ってやってきた蘭世が、訝しそうに祖父の様子を眺める。
明治郎は長くのびた白い髭をなでながら、
「ムーラインから打診があったのじゃ」
「ムーライン?ああ、最近ジェネリック作り始めた製薬会社ね。あんまりいい評判聞かないけど…
って、あれ、おじいちゃん、今はフォーレスと共同開発してたんじゃなかったの?」
「それがのう…」
明治郎は困ったように、綿のようにもうもうと茂った眉を寄せた。
「ムーラインが言うには…フォーレスはもうあかんと。さっさと手を切っておいたほうが良いと言うんじゃ」
「アカンてどういうこと?」
「倒産、あるいは…いや、どんな形であれ、潰れるということじゃろうなあ」
「うそ、あそこってそんなに傾いてた?っていうか、どうしてムーラインがそんなこと知ってるのよ?」
「陰謀だよ!ムーラインが邪魔な敵会社のフォーレスを潰して、吸収合併しようとしてるんだ」
傍で顕微鏡をだらだらと眺めるふりをしていた海瑠が目を離し、即座に口を挟む。
「そんなこと、言うほど簡単にできるもんじゃないでしょ」
呆れ顔で蘭世が海瑠を咎めようとすると、明治郎は首を振り、
「いや、やってのけるかもしれんぞ…」
と低い声でつぶやいた。
「おじいちゃん、どうするの?本当にムーラインに乗り換えちゃうの?」
「自分可愛さに悪の組織に加担するほど大それた研究はしとらんよ。
研究が出来ればそれでいいという科学者は多いが、我々は善悪を弁えんロボットとは違う。
何か嫌な予感がするのう…とりあえず、奴らに迎合したフリをして探ってみようと思うとる。
海瑠、ムーラインの連中と来週の月曜に一度会うことになっとるんじゃ。お前がいってくれんか」
「ぼくが?」
「お前でも製薬会社の連中と話す知識程度なら十分にある。
わしが応対すればより詳しい話も多少はできようが、最初は相手もそう簡単にボロは出すまい。
だがお前なら油断するかもしれん。頼めるか?」
海瑠は先ほどまでのやる気のない様子とは打って変わって、使命感と正義感に燃えた瞳を瞬かせた。
「わかった。任せてよ、博士!」
現在職なしフリーター、川和田羅門(かわだ らもん)はぶっとい眉毛をしかめて考えていた。
「ううむ、どうにかして一山当てる方法はないものか…」
昼過ぎの公園のベンチである。子供連れの母親がたくさん集まり、広場は賑わっている。
たいていこの時間帯にはマジックを披露している異国人風の道化師がおり、
みな彼のささやかなショーを楽しんでいるようだ。
「何言ってんだよ、そーやって考えた中で当たったことなんてひとつもねーのによー。
早いとこ仕事見つけなきゃ、あたいら飢え死にしちまうぜ」
隣でジュースを片手に、万年家出娘の苛原奈々(いらはら なな)が口を尖らせる。
「そう言うな、ナナ。チャンスはきっとあるぜ。
トラック運転手で俺らまで養ってくれてる瀬口(せぐち)のためにも、なんとかしねえとな」
そう呟いて川和田が見上げたのは、最近建築されたばかりの巨大ビル。
「あれのせいで視界がめっきり悪くなりやがった。日当たりが悪くてしょうがねえや」
株式会社ムーライン。昔は三流か四流かといったところの弱小企業だったが、
近年めきめきと頭角を現し、恐ろしいほどの勢いで成長してきた製薬会社だ。
「…ムーライン、か。ああいうのが勝ち組ってやつなのかねえ。ああ、リア充なんて
弾けて混ざっちまえばいいのに…そういえば、
ムーラインの香酢を飲んで劇症肝炎を起こして一週間で死亡したっていう事故がいつかあったっけな。
しかしこの会社は平気なツラして今も…あの話は一体どうなった?」
川和田はしばらく考えていたが、やがてパチンと指を鳴らした。
「ナナ、思いついたぜ」
「何を?」
「なあに、ちょっとした暇つぶしさ」
川和田は奈々を促して立ち上がり、広場でジャグリングをしている異国風の男に近づき声をかけた。
「よう、オッサン。今日も精が出るね」
「ありがとうございますあるね、旦那はん」
「名前なんてーの?」
「ミーであるか?ガウド・ソンツェン・ガンポ・ゴータマシッダールタ・郷田あるね!」
「なげー名前だな…」
「…」
一気にモチベーションの下がった奈々を横目になんとかテンションを保ち、
「えーっと、ミスター郷田。いつもこの場所でやってんのかい?」
「はいな」
「そっか。なら、頼みたいことがあるんだけど…オッサン、オレに雇われない?」
ナースステーション以外は明かりの落とされた、深夜の整形外科 入院病棟。
丹念に撫で付けられたオールバックが長身をかがめるようにこそこそと入ってきた。
濃紺のスーツに身を包んだ青年はナースステーションを覗き込み、
当直の看護師と目が合うと律儀に辞儀をして、
有限会社フォーレス
営業部販売課課長 有出イズル(ありで いずる)
と書かれた名刺を差し出した。
もう五枚目ぐらいになるな…と思いながらそれを受け取り、
看護師 不破美也(ふわ みや)は上目遣いに相手を見上げる。
「有出さん、あのぅ、何度も申し上げましたけど…時間外の面会は受け付けていないんですぅ」
有出は疲れきった瞳で物憂げに不破を見下ろした。
「分かっています…でも、連日残業続きで面会時間内に来ることができないんです。
いつもお世話になっておりますよしみで、どうかお願いします」
「いや、お忙しいのは まあ…ですけどねぇ」
「鳥谷には伝えなければならないことが…まだ知らないだろうから…俺が…せめて、今…」
彼は前日までの様子とは違っていた。
目は焦点も合わず、ぶつぶつと呟く様がなんとなく鬼気迫っていたので、
「そりゃ、フォーレスさんのお薬はよく使わせていただいてますけどぉ…」
不破がこのまま彼を追い返すのもなんとなくそら恐ろしくなってきたところへ、
「どうした?」
「あ、先生」
折しも本日当直の整形外科医、阿比留俊夫(あびる としお)が萎びた白衣をしょって現れた。
不破がすがる目で見ると、事情を察した阿比留はやれやれと肩をすくめて、俯いた有出の顔を親しげに覗き込み、
「有出さんか。すまんね、何度も足を運んでいただいて。鳥谷さんも仕事のことが気になっている様子だった。
でもさすがに今はね、彼も眠っているし、他の患者さんもいますから。休みの日にでも来てくださいよ」
言い終わるか終わらないかの時、
「有出くうううううううん!!!」
叫びながら薄暗い廊下をこちらに向かって猛ダッシュしてきた人影があった。
「おいおい、賑やかだなこんな時間なのに」
「まあ、製薬会社の方なら時間外入り口もご存知ですから…」
呆然と見ているうちに人影は三人のもとに辿り着き、
「大変なの!!遅かったの!!倒産して!!社長が!!」
有出に向かって意味不明な言葉の羅列を喚きたてた。
「え…恵美子、落ち着いて。どうしたんだ」
それは有出の同僚の字井恵美子(あざい えみこ)だった。
なおも興奮冷めやらぬ恵美子に有出が肩を掴んで息を整えさせると、ようやく落ち着いてきた彼女は目に涙を浮かべ、
「社長がお亡くなりになったの!自殺だって…でもきっと違うわ、殺されたのよ!!」
「なんだって!?」
これには阿比留と不破も仰天した。
この後彼らは、思いもよらぬ大きな事件に巻き込まれることになっていくのである。
三流製薬会社・カナの専務、水谷仁(みずたに じん)は一人溜め息をついた。
心労の原因は現在の社長の怠惰さと無知、そして浪費癖だ。
彼の父がワンマンで小さな薬の訪問販売会社だったカナをここまで大きくしたというのに、
彼に代替わりしてからあっという間にその富と名声は地に落ちてしまった。
今は細々と入浴剤やサプリメントを作ってなんとか存続を保っているが、このところ赤字続きである。
(先代の頃はよかった…)
嘆いていても仕方ない。先代に、息子、つまり現社長のことを頼むと遺言を受け取った。
自分の築き上げたカナをどうか守ってくれと、先代の願いを託された自分が何とか社を復興させなければ。
それが専務の責任だ。
彼はフォーレス社長の死に不審を抱いていた。
あの裏には、何かあるような気がしてならない。
(確かにフォーレスの社長は心労が重なっていたのかもしれない。経営が思わしくなかったろうからな…
しかしそうなるに至る過程は、経済の動向から見てもあまりにも不自然だ。
自社のことで手一杯であったから今まで気づかなかったが…フォーレスは意図的に潰されたとしか思えない。
一体何者の手で?三流会社といえど、いずれ影響が我が社にも波及してくるやもしれぬ。何か策を打たなくては…)
水谷は今朝の新聞を取り上げた。
最裏面にフォーレス社長の訃報を伝える記事が載っていたため、手元においていたのだ。
何か情報はないかと流し見ていくと、10面に宇原明治郎の一般向けの化学コラムが載っていた。
コラムと一緒に掲載されている明治郎の顔写真を、水谷はまじまじと見つめた。
彼にとっては憧れの人物である。彼に協力してもらって新薬開発研究を行いたいと思っても、
この会社程度の力ではスポンサーとしてあまりにも頼りない。高嶺の花だった。
(宇原教授は何か知っているのだろうか?フォーレスと共同開発を行っていた…
彼はこれからどう動くのだろう?いずれにしろ彼が何か関わっているのは間違いない。
彼と交流を持てれば、自社の益にも繋がるかもしれぬ!)
そう考えると、居ても立ってもいられなかった。
水谷は社長に暇を願い出た。
(未完)
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